序文
1997年の10月に「臓器の移植に関する法律」及びその関連法案が成立し,今年の2月28日と5月12日に2例の心臓移植が行われ,順調に経過していることは,移植医療の発展にとって喜ばしいことである.最近,脳の死はヒトの死であるという考え方は次第に定着しつつあるが,どの時点で,脳の死を判定するかには難しい問題が含まれている.つまり,脳波の平坦化,一定時間以上の自発呼吸の停止,瞳孔散大と対光反射の消失などが確認できても,全脳組織の機能が完全に停止したわけではない.不可逆的な脳機能の停止を正確に判定することは,きわめて難しい.一方,脳移植研究の目指すところは,損傷を受けたり,慢性的に機能傷害におちいった脳組織の機能を,神経細胞移植などによって修復し元の機能を復活させようとするところにある.この点で心臓移植の考え方とは逆の立場にあるともいえる.とはいえ,移植によってヒトの疾患の治療を行う移植医療としては共通の問題や課題を含んでいるのも事実である.つまり,移植の際のドナー組織をどうして確保するのか,それがヒトの場合にはその倫理的問題はどうか,ドナー組織の生着の向上のためにはどのような手法が必要なのか,拒絶反応にどう対処するのか,移植を受けるあるいは受けた患者の精神的問題をどう克服するのか,など共通の課題は多いわけで,その点で今年に入っての心臓移植の再開とその成功は脳移植の研究者にとっても喜ばしいことである.
脳移植とは,臓器移植ではなく,組織あるいは細胞移植である.脳移植の場合には移植されるドナーは,胎児神経細胞,培養神経細胞,遺伝子操作した細胞,自家細胞などであり,パーキンソン病,ハンチントン病,筋萎縮性側索硬化症,癌性疼痛に対する臨床応用が欧米諸国および我が国で試みられている.今後,これら以外の脳・神経疾患や脊髄損傷への移植の臨床分野が広がって行く可能性が高い.本書ではそれらを念頭に,これまで行われてきた動物での脳移植の基礎研究の流れと現状を概観し,臨床的試みであるパーキンソン病の移植療法の背景と実態を中心に紹介する.出来るだけ幅広い分野をカバーしたつもりであるが,紙幅等の関係で,移植による視床下部や脊髄の機能修復の問題,最近注目を集めている,神経幹細胞移植や羊膜細胞の移植による脳機能修復の試み,などに関してはふれることができなかった.これらの研究動向に関して関心のある方は,関連論文などを参照されたい.近年の遺伝子工学,細胞工学の発展は著しく,これらの手法を最も有用に応用できる分野の一つが脳移植の研究である.来るべき「脳の世紀」において脳研究の中で脳移植研究の果たす役割は大きい.
脳移植に関してこのような企画をしていただき,遅筆にも関わらず,完成まで根気強く見守っていただきました,中外医学社の編集部の方々に深く感謝いたします.この本が,神経系に関わる臨床医,研修医,大学院生,また基礎医学で神経損傷,再生,機能修復などに興味を持つ,若手研究者,大学院生などに広く読まれることを期待します.
1999年6月14日
福田 淳
伊達 勲