序
Swellings that are painful... and hard indicate a danger of death in the near future; such as are soft and painless, yielding to the pressure of the finger, are of a more chronic character.
(Hippocrates, Pognostics VII)
The impact of molecular biology and genetics on cardiovascular disease is growing rapidly.
(Braunwald et al., Heart Disease, 6th ed.)
ここ数日の間に偶然我が国と米国で心不全のシンポジウムに参加した.最近心不全に対して関心が高まっているがそれには理由がある.米国においては毎年55万もの人が新たに心不全を発症しており,約500万人が常時心不全症状を呈している.心不全の患者は年齢とともに上昇し,80歳以上では10%以上の人が心不全であり,その死亡者数は全ての癌を合わせたものを上回っている.また心筋梗塞による急性死が減少したのに対し,薬物治療や高額な非薬物治療が進歩したこと及び高齢者が増加していることより,心不全にかかる医療費は全疾患中トップである.我が国には正確な統計がないが,生活習慣が欧米化し,急速に高齢化社会を迎えている我が国においても心不全が大きな問題であるのは自明である.
それでは心不全はどこまで明らかにされているのか? 心不全とは全身や肺に水がたまる病気というヒポクラテスの症候学的概念から血行力学的解析の進歩により心臓機能の低下によることが明らかになったものの,その原因については長らく不明であった.実験的,臨床的に交感神経系やレニン-アンジオテンシン-アルドステロン系,サイトカインが心機能不全に関与していることの発見は最近の大きな進歩であるが,これとても一種の増悪因子にすぎないであろう.何故これほど心不全の発症機序に対する理解が遅れたのであろうか.その大きな原因は,分子機序を解析するための分子生物学的手法が心不全研究に応用できなかったことにある.他の多くの疾患,例えば癌,心臓でいえば心肥大であれば培養皿上で細胞の増殖や肥大の機序を解析すればよいのに対し,心臓機能の問題である心不全の研究は培養皿上では不可能である.
10年余り前より心不全の分子的解析を可能としたのが,遺伝子改変マウスであり,マウスの心機能解析法の確立である.トランスジェニックマウスやノックアウトマウスを作成し,詳細な心機能の解析をすることにより,個々の分子の心機能における役割が明確となり,心不全の原因となるか否かを知ることが可能となった.
心不全は多くの心疾患の終末像であり,様々な原因で発症してくる.そのためもあり未だ群盲象をなでる状態であるが,鍵となる分子は存在するはずである.例えばジストロフィンなどがその例かもしれない.ジストロフィンの異常により発症する筋ジストロフィーでは,拡張型心筋症様の心臓を呈する.このことより,ジストロフィンと密接な関係をもつサルコグリカン,アクチニン,アクチンなどの異常により拡張型心筋症となることが明らかにされた.また心筋炎後に拡張型心筋症様になることがあるが,それは心筋炎の起因ウイルスが分泌するプロテアーゼにより,ジストロフィンが切断されるために発症する可能性が報告された.さらに最近では拡張型心筋症に限らず虚血性心筋症においてもジストロフィンの分解が生じていることが報告され,心不全の共通の病因としての役割が注目されている.
このように心不全の発症機序についての解析は始まったばかりであるが,急速にその知見は増大している.そこで遺伝子改変マウスの知見を中心に,現時点での知識をまとめようと考えた.本書を書いている間にも次々と新しい知見が集まっており,すぐに古い知識となってしまう恐れはあるものの,従来の成書とはかなり異なったものができたのではないかと思う.心不全に関する概念が大きく変化していることと,逆にまだ未解明の部分が多いことを理解していただければ幸いである.
2002年12月
La Jolla にて
小室一成