はじめに
腹痛の症状には血管,消化管,神経など様々な要因があり,腹痛診察に苦手意識を持つ医師は多い.教科書に書かれている内容その全てを考えて日常診療ができる医師は少ない.救急室や外来で,腹痛患者でコンサルトを受けた場合に見逃しが許されない状況で,我々外科医がどのように考えて限られた時間内で腹痛患者を診察しているのかを書いてみた.実際に研修医がすぐに実践できるように,シンプルな方法での記載を心がけた.この内容は現在当院の研修医教育で行っている内容である.
もちろんこの方法に異論がある先生もいるであろうが,ここでは私が外科医としてこれまで30年以上救急の現場から様々な腹痛患者のコンサルトを受け,診断治療してきた方法を紹介する.「ひづめの音が聞こえたらシマウマではなく馬を探せ」「When you hear hoofbeats, look for horses not zebra」アメリカの医学会での格言であり,「まずは確率の高い,当たり前のことから疑え」という意味である.私も研修医時代によくアメリカの専門医を持った先生方に言われたことを思い出す.しかし一定の確率でkiller disease(見逃すことにより患者が死に至る可能性のある疾患,以下killer disease)が紛れていたり,SMA血栓塞栓症などが見逃されていたり,絞扼性腸閉塞を腸炎として経過観察されている症例を経験する.
これまでの臨床経験の中で,見逃しや診断遅れが原因で,最悪の結果になった患者,手術で命は助かっても日常生活が送れなくなった患者に対して申し訳ない思いで治療しながら,「なんとかこのようなシマウマ疾患が普通に見逃さないように診断できるような教育はないものか」と考え,これまで試行錯誤しながら研修医講義を行ってきた.そこで私が外科医として研修医に腹痛に関して教育していることは,「ひづめの音が聞こえたら,シマウマを除外してから馬を探せ」としている.「まず最初に生命を脅かす疾患は必ず除外し,その過程をカルテに記載し,その後に馬をゆっくり診断してください」実際に外科医は見逃しのないよう様々な方法で腹痛患者に対応していると思う.医者の数だけ様々な方法,考え方はある.頻度を知っている,エビデンスを知っていることは素晴らしいことだが,外科医としては頻度,エビデンスよりも「目の前の患者さんに緊急疾患が本当に隠れていないのか」という見逃しが決して許されない状況で診療を続けていると思う.その中の一つである,今我々が行っている方法を紹介する.
この本では,腹痛に関する医療推論は誰でも簡単に,1年目でもkiller diseaseを見逃さない問診ができるように心がけた.診察もシンプルで基本的な内容である.CTの見方考え方では医師として最低限知るべき基礎的な異常所見を提示した.臨床所見と照らし合わせ,読影を行い,治療判断もできるようになることを目的とした.
ER型救急病院でアドバンスドトリアージ(診断能力の高い救急医が行うトリアージ)を行う診断能力に長けた救急医が24時間在籍している病院では問題ないであろう.しかし,そうでない場合,ここで示す方法は,CTを撮る閾値は下がるが重大疾患の見逃しが少なくなる方法と考えている.実際最近も,夜間の救急でこの教育を受けた当院1年目が来院直後,まだ腹膜刺激症状も何もない時点でSMA血栓塞栓症を見事来院数分で診断し,迅速な治療につながった.また別の1年目はSMA単独解離の症例を来院後すぐに診断した.
1999年の患者取り違え事件以来,日本では医療訴訟が増え,2003年のカルテ開示の義務化や,民事訴訟のみならず通常診療でも結果次第で刑事訴訟にまで発展する日本の司法制度,治療結果が悪ければ医療ミスと考える日本の今日の風潮によって,たとえ非常に稀な疾患でも誤診,診断の遅れが,以前にも増して許されない時代となっている.
ますます初療医の診断能力,判断能力が問われてくる時代である.
しかし医療は不確実であり,「絶対○○である」とは言えないことが多い領域である.時に診断が難しく,すぐに診断が思いつかない場合もある.働き方改革が叫ばれよく耳にするようになったが,いまだに医師は過重労働を強いられる場合も多く,意識せずに何らかの認知バイアスが加わったまま診療を行っている.認知バイアスは誤診につながりトラブルにまきこまれ,悪循環の連鎖となる.
この本の後半は,認知バイアスは常にかかっているものと考え,症例ごとにもう一度再確認することが大切である.診断時の認知バイアスをなくすために,我々が研修医に教えている方法を伝えるとともに,患者の帰宅時のトラブルを避ける説明方法,トラブルに巻き込まれた時に唯一自分を助けるカルテ記載に関しても簡単に記載した.
この本の目的
・研修医,若手医師が腹痛患者の問診,診察,診断,判断に,自信を持ってすぐに対応できるようになること.
・患者の生命や予後に関わる致命的な誤診をしないようになること.
・研修医,若手医師がトラブル,訴訟に関して,医療側の対策を知りできるようになること.
この本の使い方とお願い
この本は診断レベルでの緊急疾患の見逃しがないように,外科医が考える腹痛疾患の診断の流れ,考え方を中心に記載した.外科医の経験に基づいておりエビデンスを論じる内容ではない.各疾患に関しての内容は不十分であるため,個々の症例の詳細に関しては論文,教科書,ガイドラインなどで各自確認することをお願いする.