序 文
本書は,緩和ケア領域で長年にわたって実践・研究されるとともに倫理的な論争を引き起こしてきた「苦痛緩和のための鎮静(palliative sedation)」と,安楽死とのグレーゾーンを正面から取り上げるものです.
オーソドックスな「苦痛緩和のための鎮静」については,国内外でガイドラインが公表されています.日本では日本緩和医療学会が「苦痛緩和のための鎮静に関するガイドライン」を2004年から発行・改訂してきました.このガイドラインは2018年版からは名称を「がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き」に変え,今も改訂作業が続いています.そのなかで例外的な扱いとして保留され,位置づけのはっきりしないものがあります.例えば,予後がまだ見込める患者の精神的な苦痛に対する鎮静などがそれに該当します.
その一方で,この間海外では,フランスにおけるクレス・レオネッティ法において「治療の中止と一緒に開始されて死亡まで継続される持続鎮静」が合法化されるなど,鎮静の適応範囲を拡張しようという動きもみられています.
鎮静は,論じるそれぞれの専門や立場,経験,人生観によって考え方が異なり,統一した一つの指針を明示することは困難です.一つの角度から議論しようとしても思考が偏る恐れがあり,その像は茫漠としたままになりやすいものです.そこで本書では,鎮静と安楽死のグレーゾーンと考えられる領域について,医学(緩和医学,精神医学,疼痛・麻酔学),看護学,生命倫理学,法学の専門家9名の立場から論じてもらうことで,グレーの明度を上げ,その像を浮かび上がらせることに挑みました.本書の目的は,結論を導き出すことではなく,多様な観点を知り,どこに論点を置くことが妥当であるかをはっきりさせることです.
本書の冒頭では緩和ケア領域において鎮静が医学上の議論になった経緯をまとめながら,議論すべき鎮静の枠組みを提案し論点をあげました.それに対して,各専門家が専門領域における見解を示し,最後に論点を整理するという構成になっています.9人の専門家はいずれも日本緩和医療学会の鎮静ガイドライン・手引きの作成にかかわっており,本書はその作業からのスピンオフ作品ともいえるものです.ガイドライン・手引きには表現されにくい,議論になった「生の声」が届くといいなと思います.
緩和医学からは新城拓也と今井堅吾に依頼しました.新城は精神的苦痛が前面にあり自ら鎮静を希望する患者との出会いから,NHKクローズアップ現代「『最期のとき』をどう決める──『終末期鎮静』めぐる葛藤」への出演やSNSを通じてリアルな現場を世間に届けようとしています.今井は,淀川キリスト教病院と聖隷三方原病院という日本を代表する2つのホスピスに勤務し,鎮静の実践が施設によって大きく違う現実を目の当たりにして,鎮静の実証研究に取り組んでいます.偶然ですが両者は出身大学が同じであり,「終末期患者の苦痛は放っておくものだ」という時代を生きて今に至る豊富な臨床経験に基づく論考となっています.
精神医学からは明智龍男が,疼痛・麻酔学からは馬場美華が執筆しています.明智は,がん専門病院が精神科医を診療チームに迎え入れた時代の先駆者です.国立がんセンター東病院の緩和ケア病棟で「緩和することのできない精神的苦痛」を前に精神医学はなにができるのかを突き詰めて考えていました.馬場は,麻酔科出身の緩和ケア専門医として,疼痛に対する評価や患者の意識の評価に関して鎮静を検討するうえで必要な専門的な知見をまとめてくれました.看護学は我が国のがん看護のトップランナーである田村恵子が引き受けてくれました.彼女のライフワークである「スピリチュアルペイン」に対する鎮静についてどう考えれば良いのか,という難題に取り組んでいます.
生命倫理学からは,田代志門と有馬斉が執筆しています.田代は,国内の鎮静に関するオーソドックスな倫理的枠組みにおいて,グレーゾーンの鎮静がどのように位置づけられるかを検討しています.田代はあくまでも鎮静と安楽死との相違点を強調する立場を貫いていますが,有馬はこれとは対照的に安楽死と鎮静との道徳的な類似性を主張しています.両者の論考を読み比べることで読者は鎮静と安楽死との区別についての考え方の幅を知ることができるでしょう.
法学からは,一家綱邦と一原亜貴子が執筆しました.一家は医事法の立場からインフォームド・コンセントの問題を中心に論じるとともに,病院としての組織的な対応や法的な環境整備の重要性を指摘しています.一原は本書の構想時に鎮静に関する論説を発表していた唯一の刑法学者であり,刑法の立場から鎮静がどのようにみえるのかを教えてくれます.両者は,2023年に公開予定の新しい日本緩和医療学会の鎮静の「手引き」において,鎮静の法的側面を検討しており,その過程で得られた成果の一部が本書に収められた論考として結実しました.
以上の執筆陣に加えて,鎮静に関して長くかかわってきた3人の「生き字引」的な先生方として,臨床は池永昌之先生,倫理は清水哲郎先生,法学は稲葉一人先生にお願いしました.お三方とも国内で鎮静に関するガイドラインができたときからの関わりであり,20年にわたる歴史的な経緯を知る人たちです.
本書を通読すれば,鎮静と安楽死のグレーゾーンに関する全体像や論点を掴むことができます.編者としては,それを通じて「私ならどうするだろう?」と自分自身の考えをより深めることや,国内で既に現実的な選択肢として行われている「鎮静」の社会的な位置づけが明確になることを期待しています.最後になりましたが,本書の刊行にあたって企画段階からご尽力いただきました中外医学社の鈴木真美子さんに深謝いたします.
2023年5月
編者 森田達也 田代志門