はじめに
私たち医師には,日々の診療で倫理学あるいは医療倫理に基づいて診療を行っているという意識は少ないと思います.しかし,医療現場で解決しがたい課題,たとえば安楽死の是非について決断せざるを得ない状況に遭遇すると,その安楽死が正しい行為なのか否かを検討しなければならないのです.このとき,その判断の手助けになるのが倫理学,医療倫理と呼ばれる学問です.
しかし,医療倫理を含めた倫理学の書籍を通読して感じることは,その倫理的考察が実際の医療現場に即した内容になっているのかが甚だ疑問であり,臨床の現場で本当に役立つ学問なのだろうかとの思いです.たとえば,最近の医療倫理では,パターナリズム(温情的父権主義)は不適切な考えかたであり,現在は患者自身の判断や自己決定権が最優先されるリバタリアニズム(自由至上主義)が主流であると主張しています.患者自身の判断に基づく同意が存在しない医療は法的には違法であり,また倫理的には患者の判断や意思決定が最優先されるべきであるとされています.しかし,医療現場では,自らで意思決定をできないあるいはしない,したくない患者や家族が相当数存在しているのが実情ではないでしょうか.また人の判断や意思決定には種々のバイアスが存在することに関して倫理学,医療倫理は無関心あるいは視野に入れていないように感じます.医療倫理を扱う書籍を熟読すると,知的能力の高い,あるいは社会的道理を十分弁えた患者や家族に当てはめるならば確かに書籍の内容通りだなと思えるのですが,医療現場では必ずしもそのような人々ばかりではなく,現在の医療倫理の書籍には机上の空論を唱えているとしか思えない記載が多すぎるのです.私たち医師が遭遇する患者やその家族は,教育歴や知的能力,生活環境,経済状況,家族との関係性,性格,人生に対する価値観などの背景要因が多様であり,医療倫理に関する書籍が説いている内容はそのなかで比較的解決の糸口をみつけやすい,あるいは解決しやすい課題を取り上げているにすぎないように感じます.また,実際の医療現場では稀にしか遭遇しないような状況を意図的に設定したうえでその課題を話題にしていることも少なくありません.多分,座学で倫理学や医療倫理を学んできた学者が頭のなかで構想したことを書籍にまとめているので現実の医療現場とかけ離れた思考になっているのでしょう.実際の医療現場に役立たない倫理学,医療倫理は捨て去られるべきです.
本書は,現場で働く医師の目からみた医療に関する諸問題について批判的な立場から倫理学,医療倫理を解説するとともに実際にどう考えていったらよいかについて解説することを目的としています.本来,医療倫理を語るときには,患者あるいは家族,医療従事者らの心理的な要因やその背景などを考慮すべきだと思うのですが,現在の医療倫理の書籍にはその視点が欠けていると言わざるを得ません.アンスコムは,「道徳哲学の研究は,心理に関する適切な哲学を手に入れるまでは,棚上げしておくべきものであり,われわれはその哲学を著しく欠いている」(大庭 健 編.現代倫理学基本論文集III 規範倫理学篇 (2),p141)と述べています.アンスコムの指摘は今後の医療倫理の課題ではないかと考えています.本書は,倫理学に関して全くの素人である著者が巻末にある書籍を熟読した上で作成していますが,倫理学の専門家から誤った解釈や独善的な意見が多々みられるとの指摘を受けるかもしれません.その折には何卒ご海容を願えれば幸いです.本書が医療現場で働く医師をはじめとする医療関係者が医療倫理の問題に直面したとき,少しでもお役に立てることができれば,それは著者の望外の喜びとするところであります.
2023年1月
川畑信也