はじめに―序文
私は臨床研修修了後,精神科医になる前に,まずは人の個性や自己同一性を形作る基礎となる「記憶と学習」の原理を研究したいと思い,東大医学部の基礎医学教室(三品研究室)で約2年間を過ごしました.そこでは,神経科学の基礎を学びつつ,記憶・学習の鍵分子であるグルタミン酸受容体をターゲットにした遺伝子改変モデルマウスに対して,さまざまな行動実験,電気生理学的解析,脳組織切片にさまざまな試薬を適用した組織形態学的評価などの実験を行っていました.筆者はその中でも特にマウスの海馬や前頭前野におけるグルタミン酸受容体が記憶や学習に果たす役割を解明するために,記憶と学習の成立・維持に必須である「神経可塑性」を切り口に,日々行動観察実験およびin vivoでの電気生理実験を行っていました.当時自分が行っていた実験で非常に印象深かったのは,マウスやラットの海馬に微弱な電流を高頻度で与えると神経可塑性の誘導に関わる長期記憶増強(long—term potentiation:LTP)が引き起こされ,その前後で実施した迷路課題の成績が明らかに上昇したことでした.また,LTP誘導後の脳組織切片を特殊な顕微鏡で観察すると実際にシナプスやスパインの増大が認められ,特殊な試薬で免疫組織染色すると神経可塑性に関連した分子の発現が増加していることもわかりました.同研究室ではラボワークの基本や研究の厳しさなどを間近で学ぶことができ,非常に貴重な経験を積むことができました.
その後,私は本来の精神科医としてのトレーニングコースに戻り,大学精神科や単科精神科,クリニックなどでうつ病,統合失調症,認知症の患者さんの診療に従事し,臨床業務で慌ただしい日々を送りました.そのような状況の中,薬物療法ではなかなか病状が良くならないうつ病患者が多いという現実を目の当たりにするようになりました.うつ症状が重い場合には,入院していただき,必要に応じて,電気けいれん療法(electroconvulsive therapy:ECT)を実施することもしばしばありました.ECTは一時的には良く効く治療法なのですが,その持続効果は割と短いことが多く,退院後すぐに再燃・再発してしまうケースが多いという問題も感じていました.さらに,医師としてショッキングだったことは,私自身が主治医として担当していた重症うつ病の患者さんにECTを実施したところ,副作用の健忘症状が非常に強く,その後,患者さんのもとに何度か診察に行っても,本人は私のことを完全に忘れてしまっており,暫くの間,私のことを認識できなくなってしまったことでした.ECTによって,うつ症状はある程度良くなったのですが,人間にとって,その人をその人たらしめる土台となる記憶をこのような形で消し去ってしまうことがありうる治療法は怖いなと思い知らされた出来事でした.
このように,「記憶や学習」に関する基礎研究室での興味深い経験と精神科医としての衝撃的な臨床経験が無意識のうちに自然と融合し,それが強い動機となり,「自分は精神疾患に対する非侵襲的な新たな治療法の開発を目的としたニューロモデュレーションの専門家になろう」と強く決意したのでした.善は急げで,早速当時お世話になっていた東大精神科の荒木先生(現帝京大学医学部附属溝口病院・教授)と笠井先生(現東京大学医学部附属病院・教授)に相談し,「治療抵抗性うつ病に対する反復経頭蓋磁気刺激療法(repetitive transcranial magnetic stimulation:rTMS)臨床研究」をテーマに博士論文を書くことにしました.それはもう今から14年前のことですが,筆者がrTMSを研究し始めた頃は,日本ではまだrTMSという名前すらほとんど知られておらず,まさに黎明期の時代でした.その当時はrTMSといった治療法がどんなものなのかを精神科医療に携わる人々やうつ病患者さんおよびその家族などにもっときちんと知ってもらいたいなと思っていました.しかし,当時はTMS療法に関して,一部のメディアにやや誇張された形で取り上げられたことはありましたが,筆者が現場で感じていた肌感覚とは,良くも悪くもかけ離れたものでした.
それから約10年が経ち,2019年6月にNeuroStar TMS治療装置(Neuronetics Inc.)を用いたうつ病治療が一定の条件下で保険適用されるようになりました.今度は約14年前の状況とは異なり,TMS療法が保険適用される前後から,うつ病に対する新たな治療法として突如注目されるようになりました.しかし,実態としては,さまざまな理由から主に都市部のクリニックにおいて,保険治療ではなく自由診療の形でTMS療法が導入されるようになってきました.同治療法を長年専門にしている筆者としては,TMS療法の知名度が上がり,徐々に人口に膾炙するようになったこと自体はとても喜ばしいこととして受け止めていたのですが,その一方でTMS療法の実践において,rTMSの専門家ではない医師が営利目的で同治療を適当に実施しているケースも散見されるようになり,そのような捻じれた歪な状況を何とか是正したいという強い思いに駆られたのも事実です.
そのような複雑な心境を抱いているさなか,中外医学社の五月女謙一様より,時宜を得た本書の執筆依頼を受け,「これはまさに自分がやるべき仕事だな」という思いから,二つ返事で引き受けさせていただきました.このような貴重な機会を与えてくださいました提案者の五月女様にはこの場を借りて御礼申し上げたいと思います.
本書が医療従事者および一般の方々にとってTMS療法に関する正しい知識や考え方を身に付ける一つの契機となり,ひいては,そのことがTMS療法のさらなる普及と適正使用に繋がることを切に願っております.微力ながら,本書がそのような役割を果たす嚆矢となれば,著者としては望外の喜びです.
2021年12月
慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室 特任准教授
野田賀大