マーケティングと筆者:前書きに変えて
今回ご縁があり,伝統ある医学系出版社の中外医学社から,「わかりやすいメディカルマーケティング」という書籍の編集および執筆をさせていただくことになった.
この本は,医療関係者の方も多く読まれると思うので,最初になぜ医師である筆者がマーケティングという学問に関心を持ったかを簡単に述べておきたい.
これは筆者が思い出話を語りたいわけではない.先日(2020 年10 月),日本を代表する経営系の学会である「組織学会」にて,京都などの老舗伝統企業の持っている最大「資源」として,その歴史は何物にも代えがたいブランドであるという話を聞いたからでもある.おそらく,医療界で本格的にマーケティングということを言い出し,書籍化したのは筆者のように思うので,まえがきで短いながら歴史を語るのも参考になるのではないかと考えたからである.
筆者は,思えば2003 年に「医療マーケティング」という書籍を出版させていただいている.これは医学系の出版社ではない日本評論社から出版したものではあるが,幸い増刷を重ね,さらには改訂を繰り返し2019 年には第3 版を発行することになった.一時期は韓国語にも翻訳された.
医療とマーケティングの関係については本文に譲るが,筆者が医師免許を取った1987 年は今から35 年程前になるが,この頃には,医療と経営というものはある意味相反するものだと捉えられていた.ただし,医療とは別個に「医業」という言葉があり,医業経営といった用語で当時の病院経営や診療所経営を伺い知ることはできる.言い換えれば.「医療経営」という言葉はご法度であったのだ.
しかし,当時であったとしても経営という視点が医療からまったく無縁であったわけではないので,この頃も医療にマーケティングをという考えはなかったわけではない.しかし,マーケティングという考え方に直接向き合うのではなく,どちらかと言えばいかに患者を集めるか,集患という目的でマーケティングが理解されていたように思う.
筆者自身のことに話を戻そう.筆者は,学生時代にとある縁からドラッカーの本を読む機会があり,非営利組織の役割にフォーカスしている点や,まさにマネジメントあるいはマーケティングという視点でドラッカーの書籍を多く読んだことを覚えている(筆者は現在,ドラッカー学会の理事).
言うまでもなく,ドラッカーはイノベーションということにも重点を置いているのだが,学生であった筆者にはイノベーションといった発想はなかった.こんなことを言うと,現在のように学生でのアントレプレナーが多い時代と比べて昔日の感があるが,マーケティングの話に戻すと,ドラッカーを通してマーケティングという概念をおぼろげながら掴んでいた筆者にとっては,やはり医師としての医師患者関係というものが一番気になる点であった.
医師になってからは,糖尿病内科という医師と患者が長い付き合いをして,場合によっては,行動変容を患者に起こさせなければいけない生活習慣病を主に診察していたので,患者が来られた時に医師患者関係を改善する手法としてマーケティングを捉えることが筆者の最初であった.
であるがゆえに,筆者の先ほど述べたような一連の著書も,医師患者関係という視点がどうしても強くなっていると思われる.もちろんマーケティングの本質が,交換を促進することとすれば,医療マーケティングの場合,医師と患者あるいは医療者と患者の間の交換を促進することになる.
そう考えれば,この視点も良いのだが,近年の医療分野の広がりはそんなに単純なものではないように思える.
ここ数年のデジタル社会の及ぼす変化によりマーケティング概念も変わったが,それ以上に世の中の構造が変わった.あるいは変わりつつあると思われる.
今回はそういった状況を踏まえて,メディカルを意味する医療のみならずさらに幅広く健康を維持するあるいはより健康になるといった意味でのヘルスケア分野も含めたメディカル& ヘルスケアマーケティングの書籍を執筆しようと思ったのがこの本の企画の最初の動機である.
「医療も聖域ではない」というのは,小泉構造改革の時のキャッチフレーズの1 つでもあるが,現代ではもはやもっと幅広く医療が生活の一部になりつつあるともいえよう.このことに関しては多少説明がいると思われるし,本書を貫く考え方の1 つでもあるので少し説明しておきたい.
医療分野は手術や救急医療に代表されるように侵襲的な手技が必要であって,裏を返せば,メスなどで人を切るといった通常許されない行為を資格を持った医師が行うという領域である.この分野は参入障壁が高く主なプレーヤーは病院である.ここを本書ではメディカル領域と捉えたい.一方,ヘルスケア領域を広義と狭義に分け,狭義は健康や予防を扱う分野とし,広義はメディカル+ヘルスケア(狭義)として考えてもいい.
ただ実際には,医師や医療関係者が行っている領域はかなり幅広くなっている.代表例が先ほど述べた糖尿病領域になる.糖尿病のような生活習慣病の領域は,広い意味では予防と言ってもいいかもしれないが,例えば糖尿病であれば血糖値が高い状況が長く続くことによって起きる合併症,例えば腎症による透析導入,網膜症による眼底出血の手術,場合によっては動脈硬化による心筋梗塞や狭心症の発症,といった救急医療や手術が必要になる状況に陥ることを防ぐという概念になる.
これは,医師や医療者が対応すべき主たる疾患が,感染症から生活習慣病に変化してきたことが原因である.ただここで生活習慣病というように,こういった病気は生活と密接にリンクしており,ここに医師が患者の生活に介入する必要性が出てきた.これが筆者の考えてきたマーケティング手法の適用ができる面である.マーケティングで言えば消費者行動といった概念になろう.
さらに筆者はそこに健康という概念を導入しようと思い,医療マーケティングの書籍の成功に気をよくし2005 年に健康マーケティングという書籍を著した.しかしながら時期尚早であったのか,筆者の実力のなさか,この本はあまり人気が出なかった.
時代が10 年流れ,デジタル技術が非常に発達してきた.こんななかで生活者は自ら選択する機会が増え,また情報の洪水にさらされるようになった.これは医療分野も例外ではなく,例えばスマートフォンに体重,歩数,場合によっては心拍数,さらには心電図といった,従来であれば,本書でいうメディカルの領域の情報が簡単に得られるようになった.そして豊かな国においては健康を求める人が増え,近年では東南アジアなどにみられるが,新興国でも健康意識が強い人が増えてきた.こういった流れのなかで,もはや日常生活と健康(生活習慣病の予防もその一部になる)は切っても切り離せない関係になってきていると筆者は考えている.
そんなわけでこの書籍においては,単にメディカルの分野のマーケティングだけではなく幅広くヘルスケア,状況によっては日々の生活についても考えようということで企画された.幸い,素晴らしい共著者に恵まれることができた.私の恩師であり,中央大学の戦略経営研究科の教授でもあり,日本マーケティング学会の前会長,消費者行動論などのベストセラー書籍の執筆者でもある田中洋先生にはマーケティングの基本を幅広く,特に消費者行動論の視点から記載していただき,ついで純粋な意味の医療者ではない第三者の視点から,ヘルスケア領域を中心に電通の比留間さん,一方メディカル領域では同じく日本マーケティング学会で活躍されている昭和大学の的場先生にメディカル領域の中心ともいえる病院の視点から,そしてここで述べているような考え方をすでに実行している米国事例としてメイヨークリニックをずっと調査されている上原さんに執筆いただくこととなった.
本書は狭い意味での医療マーケティングの書籍ではない.生活も含めたヘルスケア領域すべてに対しての知見を有している書籍であると自負している.皆様のご愛読を期待するものである.
2022年1月
中央大学大学院戦略経営研究科教授
真野俊樹