はじめに
この本では脳の虚血によって起こるニューロンの細胞死の問題を取りあげる.ごく大づかみにいうと,高齢になるに従って脳の血管が詰まりやすくなって脳の虚血を起こし,それが重大な後遺障害を残すことが実際的に大きな問題である.そこに関与する病態はかなり複雑であり,純粋に分析的なニューロサイエンスの対象として問題を単純化し,何処にターゲットを絞って研究をどう進めていくのかは易しくない.しかし最近になって,脳虚血の病態の最大の課題の一つである虚血性のニューロンの死が広い範囲の研究者のターゲットとして捉えられるようになってきた.
脳は虚血に対して極端に弱い.それはニューロンが虚血に対して非常に脆弱なためである.われわれの体を構成する細胞は好気的な代謝を営んでいるから,いずれにしろ長時間の虚血には耐えられない.このような一般的な常識の範囲をはるかに逸脱してニューロンは虚血に弱い.このことが虚血による脳障害を深刻にしている第一の原因となっている.ではなぜニューロンはそんなに特別に虚血に弱いのだろうか.この問題をめぐって最近いくつかの進歩があった.その結果,ニューロンの脆弱性の機構が少しずつ明らかになってきた.ごく大雑把にかつ大胆不敵にいうとすれば,情報の処理と蓄積(記憶)をする細胞として高度に分化してきたニューロンがその方向への進化のために虚血に対する耐久性を喪失してしまったということではないだろうか.従って,ニューロンをニューロンらしくしている膜の受容体,イオンのホメオスターシス,細胞内の情報伝達系,遺伝子発現の機構などの全てが虚血によるニューロン死に関与する.そこで,近代的なニューロサイエンスの成果を援用して虚血によるニューロンの死を理解していこうという流れが強くなってきたのである.
脳の機能を担うのはニューロンである.病気のためにニューロンが脱落していく事態は脳の機能の喪失につながる.脳の虚血ももちろんこのような病気の一部である.この他に遺伝性・非遺伝性の数多くの脳の疾患の基礎には選択的なニューロン死がある.このために,なぜニューロンが死ぬのかという問題を解決することが脳の病気を治療していくうえでの最大の課題になってきた.特に遺伝性の脳の疾患はその遺伝子を同定する研究がまさに飛躍的に進歩しつつあり,この方面からニューロンの死が解明される日も近いであろう.その一方で,パーキンソン病などの外因が原因と考えられる疾患も大きな問題となっている.脳の虚血はその発端となる虚血が血管閉塞という一見単純な原因で発生する.しかし,虚血という外因で進行するニューロンの死には,ニューロンの細胞死一般と共通する興味深い特徴があり,単に受動的な細胞の破壊という図式で捉えることは不十分である.
虚血のような単純な病態で発生するニューロンの死がそう単純ではなく,また確実にわかっていることが少ないことに読者は驚かれることであろう.おそらく,複雑に見えるのはわれわれの知識が不足していて,何が最も重要なのか理解できていないためであろう.もっと見通しのよい理解が可能となり,ひいては脳虚血によるニューロン死の治療が現実のものとなる日の来るのを期待したい.