序
神経診断学を教えて常に感じることは,学生の神経解剖に関する知識の不足である.我々自身の学生時代を振り返ってみても,解剖学の講義で神経解剖学は漏れなく教わっている筈である.にもかかわらず,その後,神経学を勉強するときになると,ほとんど何も覚えていない.結局初めからやり直しということになる.その原因を考えてみると,大まかな脳,脊髄,末梢神経の構造は理解し記憶しても,あの複雑な神経回路網のところで挫折してしまう.しかも,それが何の役にたつのかも分からず,無味乾燥で配線図のような神経経路は試験の時に一夜漬で暗記するのがせいぜいで,終わると,きれいさっぱり忘れてしまうのも無理はない.
これはあたかも旅行するときに,目的地までの間にある全ての道を路地の細かいところまで覚えてから出かけるのに等しい.車で東京から名古屋へ行くには,東京と名古屋が日本の中でどの辺にあるかという大まかなオリエンテーションと,東名高速道路およびその出入口を知っていれば十分,あとは必要な地図を持っていれば万全である.
神経内科,脳外科,精神神経科など神経系を扱う臨床の上で,実際に必要な神経解剖学はかなり限られたものであり,あの膨大な神経解剖の全てを知っている必要はない.運動,感覚,言語,視覚,聴覚,高次機能など,機能別に必要な神経経路の概要と,手術に必要な局所解剖の知識があれば十分である.あとは心要に応じ,手元に置いた神経解剖図を参考にすればよい.
そこで,雑誌“Clinical Neuroscience”の発刊に際し,実地臨床に必要な神経解剖の知識を分かりやすくカラーで絵説きする「診断に必要な機能解剖学」というコラムを設けた.この欄は,幸いにも,実地臨床のみならず,手元の神経マップとしても役立つとして,多くの読者の支持を得,89回にわたる長期の連載によって,必要な情報をほぼカバーすることが出来た.連載を終わってからも,多くの読者からこれらを一冊にまとめて欲しいという声があり,中外医学社からも同様の要請を受け,本書を刊行する運びとなった.刊行に当っては,既刊の紙面をすべて再検討し,一部の誤りを正し,すでに古くなった部分は新たに書き直した.著者のほか,編集の中田氏,イラスト担当の大熊氏を交え,全体にわたって可能な限り完壁を期したが,万一誤りがあれば著者の責任である.
本書が実地臨床医家のみならず,学生,研修医,専門医試験受験者および教育者の方々にも何らかのお役にたてば幸いである.終わりに,本書の刊行を実現して下さった中外医学社の青木社長をはじめ編集スタッフの方々に深甚なる感謝の意を表したい.
1992年5月
後藤文男
天野隆弘