はじめに
在宅医療の現場ではガイドライン通りの治療が害にもなりうる
高齢者人口が増加し,平均余命が延長している日本では必然的に「複数の慢性疾患をもつ人口」が増加しています.すなわち,在宅医療(訪問診療でもよいですが,本書では「在宅医療」で統一します)を担う医師は当然「複数の慢性疾患の管理能力」が必須となるわけです.しかし,医学部卒業後にこの「複数の慢性疾患の管理」を教育される場所はほとんどなく各医師の自助努力に任されているのが現状でしょう.ともすれば,経験診療に依存し,製薬会社の提供する情報提供に左右されてしまうのが「複数の慢性疾患の管理」と言えます.
では,懸命に各疾患のガイドラインを勉強し,遵守していれば,よい診療につながるのでしょうか? そうとも言えません.
実は,複数の慢性疾患をもつ状態は「コモビディティ comorbidity」と「マルチモビディティ multimorbidity」の2つに分けて考えられます1).
「コモビディティ comorbidity」とは,診療の中心となる疾患(index disease)が1つ存在し,その他の周辺疾患や健康問題が生じている状態のことを指します.対人恐怖や赤面恐怖の社会不安で患者さんが悩みだし,「うつ」になるような状態のことです.
一方,「マルチモビディティ multimorbidity」とは,いくつかの慢性疾患が病態生理的に関連するしないにかかわらず並存している状態であり,診療の中心となる疾患を設定しがたい状態を指します.例えば,心房細動,心不全,骨粗鬆症,糖尿病,COPD,うつ状態を伴う血管性認知症などが並存する状態を指します.海外の報告ではありますが,170万人の患者の記録からCOPD患者の19%だけがCOPDのみ,糖尿病患者の14%だけが糖尿病のみ,認知症の5%だけが認知症のみ,という報告があり単一疾患のみを有する患者はかなり少ないのです2).マルチモビディティの状態のケアは,どの科の専門家が中心となるべきかが不明瞭となり,ケアが科別に分断され,情報コミュニケーション不全により,容易にポリファーマシーや予期せぬ入院が生じやすいと言われています3).
皆さんも実感されているように「在宅医が担当する患者さんは,ほぼマルチモビディティがある」と言え,このような患者さんに各疾患のガイドライン推奨項目の全てを行うことは,医療コスト上もマネジメント上も問題が多いことは異論がないと思われます.
では,このような患者さんのケアをどうしていけばいいでしょうか? もちろん最低限のガイドラインの知識は必要です.
その上で,ある疾患を持つ目の前の患者さんに「絶対的に正しい選択」ということが存在しない場合,重要なのが「倫理的考察と合意形成を行うこと」です.
「患者にとっての最善」を考えるうえでの倫理規範として有名なものに,ビーチャムとチルドレスらによって提示された4つの規範があります.それは以下のようなものです.
(1)与益性 →「患者に行おうとしている医療が,患者に対して利益を最大限に提供できるような場合に“善いこと”とみなされる」というもの.例えば,処方する行為はこれに適合します.
(2)無害性 →「患者にとって害となることをしない,もしくは最小限にする」という原則.あらゆる医療行為は副作用や合併症があり,これを保証することは難しいです.
(3)患者の自律性 →「患者が望むことを行うことが“善いこと”である」という原則.しかしながら,やりとりの中で発せられた患者の言葉が,本当は何を意味しているのかということについては吟味される必要があります.
(4)正義(公正性) →「限られた資源をどのように公正に配分するのか」という原則.ICU入室やPCPS,透析などの特殊治療ではこの原則の検討が重要となります.
これらの4原則のそれぞれの側面から分析し「何が最善かを熟慮する」というプロセスが重要と言われます4).このように倫理的考察を含めて,各関係者と合意形成を取っていくことがマルチモビディティの状態のケアには求められます.つまり高い倫理観とコミュニケーション能力が必要です.
日常診療のヒントとしては下記のようなことを念頭に置きましょう.
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〇自分がやっていることが「部分最適ではないのか?」と問い直すこと
〇「過度にコントロールしようとしていないのか?」と問い直すこと
〇処方の見直しや各疾患の注意点を定期ケアのプランに入れておくこと
(Muth C, et al. BMC Med. 2014; 12: 2235)
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本書は,在宅医が最低限押さえておくべきコアとなる概念を「総論」で,そして「各論」では,在宅医療の現場において遭遇する高頻度の疾患のみ取り上げて,可能な限り根拠となる文献を提示しながらケアの方法を提示しました.さらには2021年3月時点での在宅医療における新型コロナウイルス感染症対策方法を余すことなく記載しました.しかし,教科書は徐々に古くなっていきます.枠組みはご参照されつつ,最終的には上記の「倫理的考察と合意形成」を踏まえて各医師がプロフェッショナルとして診療にあたっていただけたら幸いです.
2021年春
荒 隆 紀
文献
1) Boyd CM, Fortin M. Future of multimorbidity research:how should understanding of multimorbidity inform health system design? Public Health Rev. 2010:32;451―74.
2) Barnett K, Mercer SW, Norbury M, et al. Epidemiology of Multimorbidity and Implications for Health Care, Research, and Medical Education:A Cross―Sectional Study. Lancet. 2012;380:37―43.
3) Fortin M, Stewart M, Poitras ME, et al. A systematic review of prevalence studies on multimorbidity:toward a more uniform methodology. Ann Fam Med. 2012;10:142―51.
4) トム・L. ビーチャム,ジェームス・F. チルドレス,著,永安幸正,立木教夫,監訳.生命医学倫理.東京:成文堂;1997.
5) Muth C, van den Akker M, Blom WJ, et al. The ariadne principles:how to handle multimorbidity in primary care consultations. BMC Med. 2014;12:223.