第4版の序
医学生・研修医の諸君へ
着手して1年足らずで第4版を届けることができた.初版が2008年末でもう13年経つが,この間の改訂のスピードは等速ではない.初版から第2版までが5年5カ月,第2版から第3版まで4年を費やしたが,今回は3年6カ月,改訂のスピードはどんどん速くなっている.
改訂がどんどん前倒しになっている理由はもちろん神経学の進歩によるが,この13年で臨床神経学の裏打ちとなる神経解剖学,神経生理学や診断学に格段の進歩があったわけではない.最大の理由は,分子生物学や免疫学の大きな発展を背景として,疾患の再編成が進み,根本的な治療を達成できる薬物が続々と上市されてきたことに尽きる.この本は筆者一人が書いている単著である.神経学の全分野にわたって最新の情報を吟味し(溢れる情報の中で,どれを書いてどれを書かないかを選別する作業です),続いて採用した情報をどのように噛み砕いて読者に伝える(正確に,しかし明快にわかりやすく.教科書で一番大切なことと思います)という作業を改めてスタートするのは骨であったが,世の中の進歩や新しい発見を確認できて,とても楽しい時間であったことを付け加えておきたい.今回の改訂は第2,3版の改訂に倍する時間をかけた.最新の情報を取り入れるだけでなく,今一つ情報量に欠けるな,あまり美しくないなという写真は入れ替えて,ここ数年の自験例を中心にわかりやすい写真をピックアップして掲載する作業を進めた.単著のいいところは自分の考えだけで改訂を進めることができ,小回りが利くところで,第3版よりもずっといいものが出来上がったと自負している.
本文の記載方式は第3版までのものを踏襲した.疾患概念など重要な幹部分は大きな字で,副次的な内容は1段下げて小さめの字で,副次的だが重要なポイントはクリップメモの形で,という3段階スタイルである.平板にだらだら読むのではなく,まず疾患の“コア”を捉えて,重要なところにアクセントをつけて読んでほしい,というのが筆者の意図である.神経学のとてつもない拡がりを単著で若い初学者に伝える,という試みが成功しているか否かは読者の判断に任せたいが,第1ページから巻末まで,1人の人間が書いたリズムが貫かれている点は感じ取ってほしいと思う.共著本では絶対に達成できない本書の最大の美点と考えている.
AI,iPS細胞技術など,近未来の医学を大きく変容させてしまう進歩が着々と進行している.しかし,AIは手を使った神経学的診察の代用品にはなり得ないし,iPS細胞から多くのヒト臓器が作成できる時代が来ても,“その人の”脳を新たに置き換える作業は未来永劫不可能であろう.神経疾患との戦いは,一般臓器の疾患の多くが克服された近未来において,医学の最大の課題として残ることはほぼ確実である.そして今,世界中のメガファーマやベンチャー企業が,神経疾患を創薬の主要ターゲットとして熾烈な戦いを繰り広げるという,一昔前には考えられなかったような状況が目の前に展開している.この教科書を入り口として,医学生・研修医諸君一人一人の神経疾患に対する理解と親和性が深まり,この21世紀最大の医学的課題に挑戦する若者が増えることを切望する.
2021年8月 宇部の寓居にて
神田 隆
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第4版の序
脳神経内科およびその他のスペシャルティをお持ちの先生方,実地医家の先生方へ
この本は医学生・研修医の教育を主目的として2008年に初版を刊行しました.筆者が山口大学に神経内科教授として赴任したのが2004年ですが,前任地である東京医科歯科大学在職中から,学生を教育するにあたって,神経内科のいい教科書がないのはずっと気になっていました.山口大学でどうやって学生に神経学を教えようか,と思案していた時に,中外医学社から,医学生・研修医向けの神経内科教科書の編集をやってくれないかという相談があり,二つ返事で引き受けたわけです.
軽く引き受けたはいいが,さてどうしたものか.当初は各分野の専門家の共同執筆しか頭にありませんでした.医学生・研修医向けの本ですから,各著者にあまりに専門的なところにこだわってもらっては困る.でも,医学生・研修医向けだからといって,単にキーワードを羅列するような,受験本的な記載は絶対避けてもらいたい.内容に妥協することなく,しかし,シンプルにわかりやすく,ということで,筆者の編集意図を微に入り細に入り伝えるべく,「執筆のための手引き」の作成を始めました.当たり前ですが,他人に編集意図を伝えて自分の意図通りに書いてもらう,というのは簡単ではないですね.「執筆のための手引き」がワードファイルで10頁を超えたところでだんだん馬鹿馬鹿しくなってきて,編集者に,「人にあれこれ指示して書いてもらって結局思い通りの原稿が集まらなくなるより,一人で書いた方がずっといいんじゃないか」とこぼしたところおだてられて…というのが単著のこの本を作り上げるきっかけでした.ただ,一人で書き上げるにあたって,思い描く像が何もなかったわけではありません.筆者が医学生だった頃,金芳堂からA5版の小教科書シリーズというのが出ていました.この中の一つに荒木淑郎先生単著の『神経病学』があり,502頁をお一人で書かれた本でしたが,筆者はこの本をずっと机の上に置いていました.何より記述に一貫性があり,荒木淑郎先生という優れたneurologistの講義を直接拝聴しているような気分で読んでいました.こんな本がいつか自分で作れたらいいな,本はやっぱり一人で書かないとだめだな,とどこかで思っていたのが,この本の執筆を開始する最大のモチベーションになったんじゃないかと思います.
着想から2年半かけて初版ができあがり,今回第4版を上梓することができました.第3版までは医学生・研修医を中心の読者に据えていたので,文章もくだけた調子になっていました(これは第4版でもかなりの部分は引き継がれています)が,この本を愛読していただいている複数の先生から,シニアの脳神経内科医や一般内科医,実地医家の先生方にも有用な内容なのでそちらの読者向けに舵を切ったらというアドバイスをいただきました.この第4版も,基本的には医学生・研修医を中心の読者に据えるというスタンスを崩してはいませんが,私自身は医学生,研修医,シニアの先生方,誰にとっても学ぶ内容に濃淡があっていいわけではないと思っています.脳神経内科指導医クラスの先生や,内科の他のサブスペシャルティの先生方が日常的にお使いいただけるように,第4版で内容や体裁に少し手を加えました.脳神経内科医の座右に置いていただける神経学のスタンダードテキストとしても,今一番いい本じゃないかという自負はあります.
初めて本書を手に取られる先生方は,記載のスタイルが通常の教科書と異なっていることに気が付かれるものと思います.本文の記載は,?疾患理解の上で重要な幹,エッセンス(疾患の本質と言い換えてもよいと思います)を大きな字で,?副次的な項目だが疾患理解には欠かせないものを一段下げて小さな字で,?副次的だが重要なポイントをクリップメモの形で,という3段階方式となっています.だらだらと平板な記載に終始するのではなく,アクセントを付けながら重要なところをしっかり身につけていただきたいというのが狙いです.ところどころに筆者自身の経験からのコメントも入っています.また,本文中には診断(分類)基準を記載するのを極力避けています.これは,医学生・研修医の頃から,診断基準にポンポン“当てはめて”一丁上がり,などというような診断の癖をつけてもらいたくないという筆者の願いからですが,きわめて重要な診断(分類)基準のいくつかについては,巻末にまとめて記載してあります.英文が原文のものはすべて原著から筆者が訳出していますが,正確を期すために本文の文章よりも生硬な表現に傾いているのはご容赦願いたいと思います.
脳神経内科以外のサブスペシャルティをお持ちの先生方,一般医家の先生方の中には,神経が苦手な方が大勢おられるように思います.というより,“知らなくてもいい”とお考えになっている先生が大部分かもしれません.多分これは,一昔前の神経学が診断とそれに基づく分類学のみに終始し,“病気を治す”“患者を健康にする”という医学の基本に到達することが難しかったこと,そして,その記憶を先生方がまだ持ち続けておられることが大きな原因かなと考えます.私たち脳神経内科医が,訳のわからない難しい病気を扱う変わり者の集団,と揶揄されていたのも,決して故なきことではないと私は思います.しかし,時代は大きく変わりました.100年以上の間原因不明とされてきた神経変性疾患の大部分は,βアミロイド,タウ,αシヌクレイン,TDP—43などの蛋白の異常凝集によることがわかってきました.戦う相手が明らかになれば治療法は必ず出てくる,これは歴史の必然です.世界中のメガファーマ,ベンチャーカンパニーが神経疾患を創薬の主要ターゲットとして認識するようになり,脊髄性筋萎縮症,デュシェンヌ型筋ジストロフィー,遺伝性ATTRアミロイドーシスなど,かつての不治の病に有効な薬物が続々と上市される時代となってきました.世界的な課題であるアルツハイマー病の原因となるβアミロイドを除去する治療法も,まもなく日本でスタートできるものと思います.私は現在,『今日の治療薬』という本の神経疾患の編集を担当していますが,2020年からこの中の1つの章として「神経難病治療薬」を加えることにしました.治療薬のレファレンス本にこんな章が成立するなど,17年前,私が山口に着任した時には想像だにできなかったことです.
世の中は変わっています.神経疾患を“非専門だから知らなくてもいい”時代は遠い過去になりました.是非この本を活用していただいて,神経疾患の考え方,神経診察の実際,神経疾患の概要に関する知識を深めていただくとともに,神経疾患治療の“今”を体感していただきたいと思います.脳神経内科の一線で活躍されている先生方も,“役に立つ本”として座右に置いていただければ,著者としてこれ以上の喜びはありません.
2021年8月 宇部の寓居にて
神田 隆