はじめに
平成の最初の年に,実験心理学の大学院でネズミの相手をしていた本書の編者の一人の山下が,脳神経病棟に勤務することになったのはまったくの偶然であり,神経心理学という学問があることさえ知らなかった.幸運だったのは,採用してくださったのが,Boston大学で学ばれた,山鳥 重神経内科部長だったことである.主に急性期を対象とした病院であったが,リハビリテーション部門に神経心理室という部署を設けられ,2名の言語治療士(当時)と心理判定員が配置されていた.採算面での批判もあったが,先生がそれにこだわられたのは,離断症候群の概念で有名なGeschwind Nが,Boston大学に開設したAphasia Unit を日本でも実現したいという強い思いからだとうかがった.そこには医師だけでなく,Goodglass H, Kaplan E, Cermak L, Butters Nら多くの心理学者や言語病理学者が在籍し,それぞれの専門性を活かした共同研究によって大きな成果をあげていた.とはいえ実際に部屋にあったのはWAIS知能検査,Kohs立方体,Benton視覚記銘検査程度で,こんな玩具のような器具と紙と鉛筆で本当に脳の機能や障害がわかるのかと途方にくれたことを憶えている.救命救急の病院で脳血管障害の急性期治療の試みも始まっていたが,こと神経心理学に関してはまだのどかな時代だったように思う.研究については本当に自由させていただき,黄ばんだ白衣にくわえタバコの森 悦朗医長に手ほどきを受けた.
しかし,それ以後の状況は急速に変化した.特に20世紀の最後の10年は高齢化社会の急速な進行を背景として認知症(当時は痴呆症)の研究が急増した.症状の神経心理学的分析,早期発見,治療薬の効果判定,前頭側頭型認知症やLewy小体型認知症などの新しい疾患概念の確立など認知症の神経心理学にも注目が集まり,特に進行性失語症は大きなトピックスとなった.さらに2001年から開始された高次脳機能障害支援モデル事業を契機に,脳外傷の後遺症としての注意や記憶,遂行機能の障害などの評価やリハビリテーションへの関心が急速に高まった.国家資格となった言語聴覚士に加えて多くの作業療法士がこの領域に参入するようになり,訴訟や保険の関係から司法関係者にまで神経心理学的検査の知識が広まった.2005年には発達障害者支援法が施行され,2007年から特別支援教育がスタートしたことにより,教育現場も含めて小児の神経心理学的アセスメントの需要も急増した.
このように神経心理学の重要性は増すばかりだが,その一方で神経心理学的研究に地道に取り組もうという熱意のある若手医師が減少しており,学会関係者の間では神経心理学の危機が囁かれている.もう一つ無視できないのは,心理学サイドの神経心理学に対する態度である.欧米の神経心理学が医学と心理学のコラボレーションによって発展してきたのに対し,わが国では一部の神経内科医や精神科医によって主導されてきたという事情もあり,神経心理学はあくまでも医師の診療の補助業務で心理士が主体的に活躍できる領域ではないという偏見がまだ根強く残っている.そんなことはないと断言したいところだが,そう思わせる背景には患者の状態を考えずに機械的に多くの検査をオーダーしたり,心理士を単なる検査の道具扱いする,一部の無理解な医師の存在も影響している.
神経心理学には,(神ではない)人が人を測るという難しい側面がある.検査はそれを受ける者にとっては決して楽しいものではない.そして検査を行う者にとっても時には心の痛みや徒労を感じるつらい感情労働になる場合もある(同意の上で検査を行っても,途中で拒否されたり,暴言をあびせられた経験は誰にでもあるのではないか).しかし,それが治療や研究に本当に必要な検査であるのならば,できるかぎり的確に,かつ被検者に無理のない形(中止や代替検査の提案を含めて)で実施し,多くの情報をくみ取る努力をするのが心理学の専門家としての矜持だと思う.また現在使われているもの以上に,妥当性,信頼性が高く,かつ受ける側にやさしい検査を開発することは,価値のある創造的な仕事である.その一方で,社会的行動障害に対する認知行動療法など,認知リハビリテーションにおける臨床心理学的技法の有効性についてのエビデンスも集積されつつある.家族や職場に対する心理教育なども含め,この領域で心理士の今後の活躍が期待される場面は決して少なくない.
いろいろ賛否はあるものの,心理士の国家資格化が公認心理師という形でようやく実現した.平成30年9月と12月(北海道の地震による追試)に実施された第1回の国家試験では,28,574名が合格した.現在の合格者は従来の心理学教育を受けた者が中心であるが,すでに一部で開始されている新しい養成カリキュラムでは,これまでの心理学科ではほとんど教えられていなかった医学の基礎(人体の構造と機能および疾病)とともに,神経・生理心理学が必修となった.また,神経心理学に関する学会認定資格の構想も複数の学会で話題に上がっている.職種間の主導権争いでなく,医師,心理士,言語聴覚士,作業療法士,理学療法士,看護師,PSWなど脳神経の医療に携わる各職種が,その専門性を活かしつつ,患者を中心に協働できる医療の実現を目指して,それぞれの若い力がこの領域に参加し,ともに研鑽する未来を期待したい.
今回,尊敬する医師のお一人である武田克彦先生にお誘いをいただき,本書の企画に携わらせていただいた.臨床神経心理学の各領域で,最も優れた業績を上げられている先生方に年齢や職種に関係なく執筆をお願いしたつもりである.また,具体的な技法とその医学的基礎がバランスよく学べるよう工夫した.30年前の途方にくれていた自分が,こんな本があったらいいのにと夢想した臨床や研究の実務の羅針盤になるような一冊を作りたいというのが一つの目標であった.かなり無理なお願いもしたが,それに丁寧に対応していただいた執筆者の先生方や中外医学社の関係者に感謝したい.これからこの領域での活躍を目指す若いみなさんに,またそれに負けずに研鑽を続けておられる中堅やベテランの先生方に,お役に立てていただければ幸いである.
2019年4月5日
平成最後の入学生を迎えた花盛りの愛媛大学文京キャンパスの片隅にて
山下 光