序にかえて
わが国の糖尿病患者数は,近年,生活習慣の大きな変化と高齢化社会を背景に急激に増加している.1997年秋に行われた厚生省(当時)の糖尿病実態調査によれば,「糖尿病患者」は推定690万人に及び,その予備軍というべき者を含めると1,370万人に達する.さらに注目すべきは,「糖尿病患者」の内,受療している者は45%にすぎないことである.半数以上は糖尿病を持ちながら診断されていないか,診断されていても放置していることになる.糖尿病患者の大多数を占める2型糖尿病は,初期にはほとんどの場合無症状に経過する.たとえ合併症をひき起こしうる程度の高血糖状態が持続していたとしても,自覚症状が乏しいために,受診せず,かなり合併症が進行してから初めて「糖尿病」と診断されるケースも少なくない.すなわち,受療していない糖尿病患者が発症早期の軽症な者ばかりであるとはいえず,未受診糖尿病患者の中にもすでに重症の合併症をもつ者が相当含まれていると考えなければならない.
糖尿病の治療の目標の第一は,長期間にわたって良好な血糖コントロールを継続することによって,網膜症,腎症,神経障害など特有の慢性合併症(細小血管症)の発症・進展を抑えること,併発しやすい動脈硬化症の発症・進展を抑えることにある.それらが達成されれば,糖尿病患者のQOLの低下を防ぐことができ,糖尿病をもたない者と同様の寿命を全うすることができる.しかし,現実は厳しく,目標達成からはほど遠いことを示している.すなわち,わが国の後天性の失明原因の第一位が糖尿病網膜症であるといわれて久しい.1998年には,新規透析導入患者の原腎疾患の第一位に糖尿病性腎症が躍り出た.今後,糸球体腎炎との差は開くばかりとなりそうである.
近年相次いで発表されたDCCT,Kumamoto Study,UKPDSなどの前向き臨床試験の結果は,これらの合併症の発症の抑制には血糖コントロールの重要性に加えて,血圧コントロール,体重や血清脂質のコントロールの重要性も示している.良好な血糖コントロールの達成には食事療法,運動療法の実践が極めて大きな効果をあげることは言うまでもない.それに加えて薬物療法も有用であり,経口糖尿病薬,インスリン製剤ともに次々に新しい製剤が開発されてきている.患者の示す病態に応じて適切な薬剤を選択しうる時代を迎えたといえよう.
合併症の成因については,高血糖に基づくグリケーションの亢進,ポリオール代謝異常,Protein Kinase C活性の異常,酸化ストレス,血液凝固・血小板機能異常など多岐にわたる学説がある.近年,分子生物学,発生工学などの手法を駆使した優れた研究が展開され,複雑な成因の解明にも着実に近づきつつある.糖尿病自体の発症に関わる遺伝因子のみならず,合併症の発症に関わる遺伝因子の解明に向けての研究も精力的に進められている.近い将来,糖尿病の疾患感受性のみならず,慢性合併症の疾患感受性遺伝子がそれぞれ明らかとなり,遺伝子診断に基づいてオーダーメイドの医療を行うことが可能な日も来るであろう.合併症の遺伝子治療については,すでに一部は実現しており,今後大きな飛躍が期待される分野の一つであろう.
本書は,糖尿病の合併症について,臨床の第一線で活躍している多くの先生方に診療,研究,教育でご多忙の中,ご執筆いただいた.この場をお借りして厚く御礼申し上げる.本書が糖尿病の合併症に苦しむ多くの患者の診療に従事している医師や療養指導スタッフに広く読まれ,役立つことを願ってやまない.
平成14年4月
岩本安彦