巻頭言
乳癌においては乳房周囲リンパ節(主として腋窩リンパ節)への転移が高頻度に認められます.
従来,乳癌は腋窩リンパ節を経由して段階的に進展していくという説が一般的でありましたが,昨今,この説は覆されました.しかし腋窩リンパ節転移は,手術後の治療方針決定の際,癌の進行度をあらわす為に重要な指針となります.さらに近年癌治療に対する低侵襲・個別化治療の概念が導入され,乳癌においても不必要な腋窩リンパ節郭清を省略する為のセンチネルリンパ節(見張りリンパ節)生検が,普及してまいりました.
これは術前にラジオアイソトープや色素を乳癌周囲に局注し,ガンマーカウンターを用いて同定したり,あるいはフルオレッセンなどの蛍光色素を注入後,超赤外光線を照射しリンパ節を検索するなど,診断方法には素晴らしい進歩があり個別化治療が可能となりました.一方,実際の手術に於いては術中MRI装置などを活用する画像・情報誘導下手術が脳外科手術に用いられるなど,大掛かりな研究が国家予算で行われております.しかし日常の外科臨床に於いて,安価で汎用性の高い医療機器が臨床家に望まれている事実は否定出来ません.
私自身も医療現場と技術シーズの現場の乖離を解消すべく,両者の癒合を目的として13の学会と共に一般社団法人日本医工ものづくりコモンズを2009年11月に設立いたしました.時同じくして,「立体模型でよくわかる腋窩郭清ビジュアルテキスト」の著者,萬谷京子博士が手術書「乳癌手術ビジュアルテキスト」の解説書を出版いたしました.
著者が腋窩立体模型を作成し本書にまでたどりついたのは,日本乳癌学会専門医試験の面接で「若手外科医にどのように腋窩郭清を伝えたらよいと思いますか?」という質問を受けたのをきっかけにして,前著の解説書は術野の写真の羅列であり,何かもの足りなさを感じた,ということから始まりました.さらに 2013年にFACS(Fellow of American College of Surgeons)となり,その理念“high qualityの医療の標準化と若手外科医への伝承と育成”を常に心に刻んでいたことが後押ししたからであります.
そこで解説書のqualityを上げる為に努力したのが,腋窩立体模型と解説書の一体化でありました.正しく,画像・情報下腋窩郭清手術の実現であると同時に,近年,国主導により導入がはじまるスタンフォード大学におけるbiodesign fellowshipプログラム,すなわち,臨床現場に即した課題解決型ものづくりへの実践を,著者が実行することになったわけであります.著者より相談を受けたので,以前より親交があった医工連携のオピニオンリーダー,九州大学,大平猛教授に相談を依頼したところ,立体模型の完成に至ったわけであります.
今回出版された本書の特徴としては,著者自身が長年の臨床の現場で乳腺外科専門医の立場で抱いた20の疑問をoperative question として模型・術中写真を活用され,解剖と手術操作を明確に解説している点であります.LevelIの郭清法はもとより,血管・神経の見つけ方,温存法あるいは肥満患者の操作のコツにまで言及されており,経験の少ない外科医にとっては安全な手術の必携の書といっても過言ではありません.さらに著者の経験から,剥離操作を内側から外側,またその逆からの操作について,模型を活用しながら懇切丁寧に説明している点など,現存の教科書にはない特徴であり,乳癌手術のバイブルとして活用いただければ望外の喜びであります.
2015年5月
国際医療福祉大学学長
慶應義塾大学名誉教授
北島政樹