序
「高次脳機能障害は難しい」という臨床家の声をよく聞く.それはなぜかと考えるに,失語,失行,失認など個々の症候に関する知識はあっても,目の前の患者をどう診察して,どの所見をとるべきかがわからないのが大きいと思われる.ましてや実際の患者は複数の高次脳機能障害を併せもつことが多いため,その診断は容易ではない.しかし,系統的に適切な診察をすれば,複雑にみえる症候を解きほぐすことは可能である.また,必要な神経心理学的検査を適宜選んで行えば,経過観察やリハビリテーションに役立つことがある.このようなことは,経験を積んだ指導者のもとで共に患者を診ながら学ぶのが最善だが,そのような機会はなかなか得られないのが実状である.
そこで,本書はさまざまな症候を示す症例を呈示して,なるべく実際の診察に添うような形で,高次脳機能障害を診断していくプロセスを再現したいと考えた.紙上ですべてを伝えることは困難だが,初診時の所見をもとに,適切な検査を選択実施し,その結果を解釈して症候の診断に至る流れがわかるように,症例を詳細にご呈示いただいた.実際の症例を追体験することで,診察の進め方,考え方を学ぶ一助となれば幸いである.また,診察に役立つ基礎知識や用語を,「診察メモ」,「用語メモ」として適宜挿入し,症例の理解を深められるようにしてある.
本書のもう一つの特徴は,症例を症候ごとに呈示するのではなく,おおまかな病巣別に記載する形にしたことである.MRI/CTが普及しているわが国では,高次脳機能障害について診察を依頼される場合,おおまかな病巣部位はすでにわかっていることが多い.病巣部位が近似していても,諸要因により症候が同じとは限らないが,病巣部位と症候にゆるやかな関連があることも事実である.したがって,病巣の広がりから出現しうる高次脳機能障害を予測することができれば,効率的な診察・診断につながる.逆に,診察によって,画像で示された病巣部位より機能障害の範囲は広いことが明らかになることもある.なお,実際の病巣は複数の領域にまたがっていることが多いが,本書では症例を選ぶ手がかりとなるように,最も強い機能障害を呈している部位を基準に分類してある.正確な病巣に関しては,症例ごとに確認しながら読み進めていただきたい.
本書で用いた用語に関しては日本神経学会の神経学用語集に準拠して統一したが,高次脳機能障害の症候に関する用語はまだ見解が一致していないものも多い.その場合は原則として著者の表記に従ったが,章により異なるなど混乱をきたす可能性のある場合は,編者の判断で統一してある.不備な点,適切でない部分などお気づきになった場合は,忌憚のないご意見,ご助言をお寄せくださるようお願いしたい.
本書に掲載された症例は,全国で高次脳機能障害の臨床に携わっている専門家が自ら経験した症例についてご呈示いただいたものである.貴重な症例をお寄せいただいた著者の皆様に深謝するとともに,これらの症例を通して高次脳機能障害への理解が深まり,臨床に役立つことを心から願っている.
終わりに,本書の企画から発刊にいたるまでご尽力いただいた中外医学社の岩松宏典氏,中畑謙氏にも謝意を記す.
2014年9月
山形大学大学院医学系研究科
高次脳機能障害学講座 教授
鈴木匡子