《訳者序文》
今回、ALSO-Japan認定インストラクターの有志が中心となって翻訳したのは、英国で開発された病院前産科救急のシミュレーション教育コースPOETの教科書である。
昨今、心肺蘇生、外傷、災害医療など、救急医療に関わる医療従事者を対象としたシミュレーショントレーニングが常に全国で開催されている。ACLS、BLS、PALS、NCPR、JATEC、JPTEC、DMATなど、様々な医療状況に応じて標準化されたシミュレーション教育が日本国内にしっかり定着している。それらの教育コースは、すべての救急プライマリケアにおいて、対応する医療従事者間にチーム医療に必要な共通言語を提供し、医療の質を維持向上させるために役立っている。
「女性の生命を脅かす状態」の中に、「妊娠に関連したもの」が存在していることは広く認知されているところであり、それに関わる可能性のある医療従事者を対象とした標準化されたシミュレーション教育も、日本国内においてここ数年急速に普及し始めている。現在日本で普及している産科救急に関わるシミュレーション教育はALSO(Advanced Life Support in Obstetrics)とBLSO(Basic Life Support in Obstetrics)である。ALSOは、1991年米国で開発され、現在、世界63カ国で導入され、16万人以上がこのコースを修了した。POETの中には、ALSOプロバイダーコースの教科書からの引用が多くあり、英国と米国が、産科救急の教育コースをグローバルスタンダードとして標準化する上で、その内容を共有し合っていることがよく理解できる。NPO法人周生期医療支援機構(本部石川県)が行っているALSO-Japan事業においても、2011年より、病院前や救命救急センターにおける産科救急への対応訓練を目標としたBLSOコースが始まった。日本国内においては、2010年調査で推定1,200例の病院前出産があり、それに関わる救急隊の多くが産科救急に関する教育の必要性を認識しているということが報告されたからである。
日本で行うBLSOコースの内容を検討するにあたり、我々は日本における産科医療の背景を十分に考慮し、日本国内で今最も必要とされる病院前産科救急の内容やグローバルスタンダードの両面から調査を行った。その際、ALSO Internationalの示すBLSO素案を元に、このPOETの内容についても研究を行なった。
BLSOコースは、現在地域3次救急医療施設、県の産科医療対策、離島医療における開催をはじめ、日本プライマリケア学会の教育セミナー、東北メガバンクが行っている東日本大震災の復興事業などで導入され、コース開催数が増加してきている。
POET翻訳版は、産婦人科以外でも産科救急に関わる可能性のある全医療従事者の教育教材として役立つだけでなく、産婦人科医や助産師にとっても病院前産科救急という観点で多くの有益な情報を提供するものと期待している。産科救急に関わる医療従事者間の共通言語としてPOETをぜひ活用していただきたい。
救急医療は、「助けられた命」という観点で常に振り返ることを義務づけられている。「助けられた二つの命」という特殊性から供給の追いつかない医療領域として問題を抱える産科医療であるが、より広い医療従事者を対象としたプライマリケア教育の推進によって新たな連携構築の可能性が広がり、産科医療の維持向上につながることを願って止まない。
訳者代表
金沢大学大学院医薬保健学総合研究科
周生期医療専門医養成学講座
特任教授
新井隆成
《翻訳の序(救急医の立場から)》
病院で「おめでとうございます!」と患者さんが言われるのは産科をおいて他にそんな科はない。特殊で神秘的な生命の営みに触れることができるのは産科の醍醐味であろう。一方、救急の世界では心筋梗塞、くも膜下出血、大動脈解離、髄膜炎などなど致死的な疾患は枚挙にいとまがない。「おめでたくない」まさかの疾患のオンパレードだ。そんな中、現実問題として産科救急だけは置き去りにされてきた事実は否めない。神秘の領域の産科救急に素人の他科の医療者が手を出していいはずもなく、「妊婦」と聞くや『逃げ』の態勢に入ってしまう医療者は多いのではないだろうか。医療者に逃げられ、患者さんがどこにも行けない『たらい回し』が世間で問題になって久しい。なんと悲しいことか。挙句、最前線で戦う産科医が疲弊し、転帰が悪いと当然の如く、刃が医師に向くのでは「逃げ得」 vs 「受け損」という奇妙な構図が出来上がってしまう。不幸の連鎖の始まりだ。
我々医療者は本来チームとして産科救急を支える必要がある。患者さんが途方に暮れるのを指をくわえてみているのでは医療者の沽券に係わる。救急隊、救命士、ナース、そしてプライマリケア医が底支えをして、産科医にいい状態で命のリレーをしないといけない。ただ今まで神秘のベールに隠れていた産科救急の基本的なことすらあまり系統だてて教育される場がなかったのも事実。「やる気はあるけど、わからない」、そんな悩みを解決すべく、ここにPOETという素晴らしいテキストができあがった(パチパチパチ)。日頃産科を専門としない医療者でも “must NOT miss” の疾患を整理し、初動の基本を学ぶことができることになったのは、産科救急の夜明けとも言えるのではないだろうか(あ、大げさですみません)。
各章では大事なところは囲み記事でわかりやすくなっており、初学者はここだけ読んでおいても損はない。少ない労力、最大効果もとりあえずOKだ。また訳者達が日本の実情にあわせてうまく改編してあるので、ただの訳本ではないところもいい。本書は基本的にはBLSO(Basic Life Support in Obstetrics)という産科救急のトレーニングコースのテキストとしても使われるものであり、その気になった読者は是非とも理論武装をして、実際のBLSOコースにも挑戦してみて欲しい。知識と技術が融合して初めて臨床現場で使えるものになってくるはずだ。そうなると産科救急が待ち遠しくなってしまうから、アラ不思議。みんなで勉強すれば産科救急も恐くない。お産って通常は正常な営みだから、それをきちんと助けることができるようになるだけでも結構嬉しいものだ。ヌルヌルの人形を使った実習はリアルで興味深い。そんな喜びを産科からおすそ分けしてもらいつつ、いざという時には産科救急の初動をしっかりできるようになれば鬼に金棒ってもんだ。この本を手に取ったあなたへの社会の期待やニーズは無限に広がっている。さぁ、勇者よ(アレ?いつの間にか勇者になっちゃった)、是非POETを熟読し、BLSOやALSOの標準化コース受講で生きた知識と技術を獲得して、あなたの目の前の患者さんを助けよう。本書はドラえもんの「どこでもドア」、ワンピースのゾロの「三刀」、名探偵コナンの「腕時計型麻酔銃」、進撃の巨人の調査兵団の「立体機動装置」、イヤミの「シェー」・・・あ、もういい?・・・に匹敵する産科救急必携の書なのだ。さて、まずは囲み記事から読み始めますか、テヘッ。
福井大学医学部附属病院 総合診療部 林 寛之