「経験から科学する老年医療」の出版に当たって
大学院終了後、1961年から1977年まで大学病院の内科での臨床研究と教育、1978年から1994年まで国立循環器病センター研究所で動脈硬化関連疾患の基礎研究、そして1996年から現在 (2012年度末) まで介護老人保健施設(老健)での老年医療と、丁度17年を区切って異なる場所で医療と医学研究に与かってきた。現在82歳、この年でなお診療を続けられていることを幸せに思っている。
老健の仕事に慣れて強く意識するようになったのが「総合医療」である。筆者が医師となってから今日までの50年間に医療界は大きく変貌した。システムの面では専門分化であり、内科(medicine)と外科(surgery)にまとまっていたメジャーの分野は、循環器、消化器、脳神経など、主に臓器別に、そして研究面ではさらに細分化され、それぞれ新しい診断技術と治療法を競い合うようになった。しかし、人の体は機械ではなく、一つの病気が複数の臓器を侵すこともしばしばである。欧米ではこの点を補うために総合医療の専門医も作られ、初期研修でも「医者」としての価値を醸成する場となっているが、「縄張り尊重で、お互いの議論を避ける」日本社会では総合医療はいまだ検討の段階にとどまっている。
総合医療を担当する医師は一般的にはgeneralistと呼ばれ、家庭医が主たる部分を占めている。一方、病院の救急診療医にはそれなりの高度の技術が要求されるし、有名なティアリー先生の診断学のように病気の本質を的確に診断することは病院での総合医療として極めて重要である。筆者の働く老健は元々病院から家庭への中間施設として設定されたもので、正式の医療機関ではない。しかし、利用者の高齢化と長期滞在者の増加に伴って、老健の医師には家庭医としての重要な役割を与えられるようになった。老人は幾つもの病気を持ち、治療には若い患者相手とは違った配慮が必要である。総合医療は幅広いスペクトルを持つ。
最近ではインターネットで専門用語を検索し、PubMedを通じ、また大学や研究センターの図書館からコピーを取り寄せて、世界中の論文を容易に検索することができる。施設入所者には脳卒中後遺症の人々が多く、糖尿病を持っている人々が多い。このほうは筆者の専門領域なので、大きな苦労なしに、新しい知識を入れて、症例に役立てることができた。阪大の保健学科の大学院生に糞便中の抗菌薬耐性(ESBL)大腸菌を調べてもらった折、保菌のリスクファクターに、化膿性疾患の既往と並んで糖尿病が出てきたのは当然と言えばそうかもしれないが、一つの驚きであった。下肢の厥冷に対して毎日足浴を必要とする入所者が多いので、文献を調べていると、末梢の毛細血管に動静脈シャントがあって毛細血管の流量を調節しており、糖尿病性自律神経障害ではこれが開きっぱなしになるため、皮膚の実質的な血液還流ができなくなっているという論文を見つけた。自分の専門分野で細かいことにばかりこだわっていたのでは、こうした新しい知識に接する、医者としての喜びはなかったであろう。
風邪の小流行の後、アルブミンや血小板の減少、抗菌薬に対するアレルギー反応など、色々な現象が見られたのを機会に、免疫と炎症の勉強をした。DNAの損傷が起こると、造血幹細胞が増殖しなくなる一方、リンパ球に分化しかけのものはそのまま全部成熟してしまって、ひずみを持ったまま末梢のリンパ節で増殖し続けるという仮説には感心した。このところ医学部ではウイルスを研究しようとする若い医学生が少なくて困っているとのこと。しかし最近、『誰も教えてくれなかった「風邪」の診かた (岸田春樹著、医学書院、2012年11月)』を読んで、時代が進んできていることを感じた。この本の著者のような臨床研究者の下で、薬学や理学部出の若い基礎研究者が多く働けたら、日本の医学に大きな進歩がもたらされるだろう。機械に使われる医者ばかりを育てずに、基礎研究者に貴重なヒント(研究材料)を与える能力のある臨床医を育てるのも急務である。
先の著書『経験から学ぶ老年医療』は、看護師や薬剤師にも読んでもらえるように、できるだけ身近な項目を対象とした。今回の「経験から科学する老年医療」は思い切って、難解なものは難解なりに、将来を見据えた人だけにでもわかってもらえればよいという「開き直った」気持ちで著述した。専門家が専門の狭い領域だけ掘り進んでいたのでは(領域間の摩擦、あるいは接合なしには)進歩はない。別の著書「ゆとりなき社会への提言」にも書いたことだが、駆り立てられる一方で、広く周りを見渡し、討論し、考える「ゆとり」がなければ、社会は進歩しないであろう。
この本を読んで、老年医療が総合医療の重要な一分野で、高度の専門的知識の集積の上に成り立つことを理解していただける医療関係者、医学研究者が増えてくれることを切に期待する次第である。