序
私たち人間は多様な環境の中で生活している.種々の環境の内外を行き来することには意味がある.「ここ」から「そこ」へ移動するということは,対象物に接近するなどの目的をもった行為である.私たちは,実に様々な手段で移動することができる.腹這い移動,四つ這い移動,膝立ち移動,車椅子駆動,歩行,走行などは能動的な移動であり,車椅子を押してもらうこと,キャスター付きのリクライニング式ベッドで隣の部屋に場所を変えてもらうことなどは受動的移動である.いずれも入力される感覚情報が変化するであろうし,能動的な移動では運動が行われる.運動を伴うにもかかわらず一所にとどまる歩行は,心肺運動負荷試験や練習のためのトレッドミル歩行であるが,これも目的があって行われる.
これら,目的のある行為はすべて価値のあるものであり,編著者はいずれの移動手段を用いる者であっても受け入れる.理学療法士は「歩行のプロフェッショナリスト」との主張もあろうかと思うが,私の考えは必ずしもそうではない.にもかかわらず,なぜ「歩行」に特化した本書の出版を考えたのかといえば,「歩行」は,人間だけに与えられた二足での移動手段であり,願わくば理学療法の目標としたい,あるいは内部障害患者や健康を求める人々の手段としたい,種々の方法で切り取ることができる移動・運動手段であるからである.
様々な切り口の中で,本書は以下のように構成されている.第I章では歩行の定義と起源について記述されている.第II章から第IV章では,順に運動学,運動生理学,神経生理学それぞれの基礎が述べられている.第V章では,歩行によってその個人を特定できるような,歩行の多様性について記載されている.第VI章では私たち理学療法士が関わる,疾患と歩行について書かれている.ここでは,肢体不自由者に加えて内部障害患者における歩行の推奨や注意点について記載されている.第VII章では健康寿命の延伸を鑑み,歩行による健康増進と障害予防に言及されている.本書の特長として強調したいのは,「歩行」を多方向からとらえる試みをしていること,肢体不自由者に限らず内部障害患者の歩行にまで言及していること,健康増進や障害予防としての歩行の可能性を指し示していることである.
執筆は,編著者が信頼を置く,理学療法士養成校や理学療法現場でご活躍の先生方にお願いした.適所の執筆をお願いするよう努めたが,専門と少し違う内容の執筆をお願いした先生もいた.全執筆者の先生,および再学習していただいた先生においては,その労に感謝申し上げる.
本書は,理学療法学生ならびに新人理学療法士を読者層として想定している.網羅的であるが故に,歩行を凝縮してとらえる内容になっている.副読本として入手していただきたい1冊になると考えている.移動・運動の一手段の「歩行」であるが,理解を深め患者に還元していただければ望外の喜びである.
2023年5月
佐々木 誠