はじめに
神経病理の知識は脳神経内科や認知症を専門とする臨床医にとって必須であり,また脳科学研究を行う際の基本でもあります.私が現職で脳神経内科を標榜する教室を主宰した時,信州大学医学部には神経病理を専門とするスタッフがいなくて,脳神経研究を推進するための環境が不十分であると強く感じました.幸いにもキッセイ薬品工業株式会社の御好意により2010年に寄付講座神経難病学を設立することができて,そこの病理学部門へ新潟大学脳研究所御出身の小柳清光博士を召致することができました.小柳博士は信州大学へ来られて,早速,信州ブレンリソースネットを設立して,信州大学医学部とその関連施設に保存してある剖検脳のリストアップを開始されました.また同時にこれらの脳標本を利用した信州Neuro CPCがオープン形式で実施されました.この検討会は神経病理の真髄を毎回追求する内容であり,各症例ごとに脳脊髄の肉眼所見から提示され,次いで免疫染色を駆使した組織像が幅広く展開されて,最終的にゲストコメンテーターの解説を含めて,疾患の成因論まで論議される内容でした.この信州Neuro CPCは合計15回開催されて,その要旨が信州医学雑誌に掲載されておりますが,脳脊髄所見の詳細な写真を含めて見事な内容です.私はこうした学問的に貴重な記載を一地方誌に留めておくのは何とももったいないと感じて,追加事項を踏まえて単行本にすることを小柳博士へ提案しました.幸いにも中外医学社が私達の提案を受け入れて下さり,今回「症例から学ぶ神経病理」の刊行に至りました.従来,神経病理は病理学の分野でも難解な領域とみなされており,若手医師または研究者向けに症例から掘り起こし,かつ最新の情報を盛り込んだ適切なテキストがありませんでした.本書はそうした神経病理のイメージを払拭すべく,身近な臨床所見・脳画像から入って,その背景にある脳脊髄の病理組織的変化を無理なく理解できるよう工夫してあります.また,免疫組織学的所見を多数掲載してあり,神経疾患の成因解明に対する分子レベルからのアプローチの現状も解説しております.
本テキストは脳神経疾患の全域をカバーすべく,症例提示で不十分な部分はサイドメモの形で最新の知識を補填しております.このような内容を信州の地から発信できることは,先輩諸氏が長年に亘って地域の医療施設で丹念な病理解剖を積み重ねてきてくださった賜物です.また同時に「病気の成因解明の基本は患者の全身解剖にある」との病理学の礎を,信州大学医学部に植え付けられた故那須毅教授の功績を私は思い浮かべます.那須教授の名前がついた“Nasu-Hakola disease”が英文誌に報告されてちょうど50年の節目に,信州の神経病理の集大成として本書を刊行できることが,那須教授の教え子の一人として感無量です.これを記念して表紙のカバーにNasu病の全脳スライス画像を挿入しました.本書がわが国の脳神経内科学の発展に寄与することを心から願っております.
最後になりましたが,本書の企画から刊行に至る全ての過程で種々の御尽力を賜った中外医学社の鈴木真美子,高橋洋一の両氏には,心から御礼を申し上げます.
2023年2月 吉日
信州大学名誉教授
池田修一
あとがき
「症例から学ぶ神経病理」をお届けします.
神経疾患とくに神経変性疾患の確定診断の多くは神経病理学的所見に基づいています.その点で神経病理学は神経学にとって不可欠な学問であり,本書が神経病理学の理解と診療や研究の進展に役立つことを願います.
本書は,症例の臨床および神経病理所見を基幹に据え,クエスチョン,考察,診断,解説……となっており,池田─小柳があたかも講義するかのように構成しました.神経病理部分がやや詳細に過ぎる箇所があるかも知れませんが,読者は自分で考えながら読み進められることを期待します.
用語は,日本神経学会,日本神経病理学会,国際アミロイドーシス学会などの用語集等に準拠しあるいは参考にしました.
本書に取り上げた症例は,ほとんどが信州ニューロCPC(信州NeuroCPC)で取り上げた症例です.信州NeuroCPC は,小生が2010 年に信州大学に神経病理医として招かれた際に,「信州に神経病理学の種を蒔き,実を結ばせるために」始めたものです.このため長野県内の基幹病院を隈無く回って神経疾患剖検例をリストアップし,「信州ブレインリソースネット」(Oyanagi K, et al.Neuropathology. 2016)を立ち上げて,その841 例の中から,神経学や神経病理学で学ぶべき必須の疾患を選んで信州NeuroCPC を系統的に実施しました.NeuroCPC では信州大学医学部脳神経内科,リウマチ・膠原病内科や神経難病学講座関連の先生方などに発表していただきました.討論も含めたその内容は,そのつど「信州医学雑誌」に報告してきたものですが,中外医学社が,初学者にも分かり易い図書として肉付けし発行することに前向きなご意向であり,発行元である信州医学会もこの発行を快くご了承されたことで本書の発行に道が開けました.
標本作製その他において神経難病学講座の山田光則教授,技術員諸氏には多大なるご協力を戴きました.また中外医学社鈴木真美子氏,高橋洋一氏には粘り強く丁寧に対応していただいたことで発行に漕ぎ着けることが出来ました.広くご関係の皆様に感謝申しあげます.
令和5(2023)年2月
信州大学特任教授日本神経病理学会名誉会員
小柳清光