はじめに
この小さな本を書いたきっかけは、医療者が多彩な環境世界の中で生きている女性に向き合う時に、医療という営みによって少しでも幸福になって頂ける、あるいは不幸を低減して頂けるようにお手伝いできればという私たちの思いである。もちろん、女性に限らず男性であっても、あるいは子どもであっても老境に入った人であっても、この世に生きる人々を診る時に、私たちには医学以外の視点から考えておくべきことがたくさんある。そして、私たちが向き合う人たちが生きる世界は様々であって、それぞれ固有の場で生きていらっしゃる。それを標準化などできる訳はない。まず、標準化などという安易な考え方を捨てようではないか…その代わり、私たちには想像力というものがあるし、それを通じた共感するという力もある。
「我々は医師であって、身体というものに対する科学…医学の専門家である。生活人としての患者という曖昧なものを対象とするのではなく、明確な科学的法則に基づいて機能しているヒトを対象として医療をすればよいのであって、その他のことなど考える立場ではないし、第一そんな暇はない。そんなことは、看護師・助産師や保健師、あるいは社会福祉士に任せておけばよい。」とおっしゃるお医者さんもあろう。私たちは、その考え方を否定はしない。その代わり、医療という場では、医師であっても看護師・助産師や保健師、あるいは社会福祉士という人たちと同等の立場に過ぎないということに自覚的になって行動して頂きたい。医療の場では、医学的知見のみが優越的存在という訳ではないからだ。スクール形式の会議室で参加者に向き合って偉そうに前に座るのではなく、円卓の一席に侍るということだ。ある意味では、その姿こそ本当の「チーム医療」というものであろう。しかしながら、本邦の医療の現状を顧みれば、やはり医師がある程度主導的な立場にならざるを得ないのも事実であり、このことが医師にも患者を生活人として捉えた上での多元的な視点からの思考が不可欠であると私たちが考えるゆえんである。
さて、医学的知見のみが優越的存在でないとすれば、最善と考えられている医学的アプローチ(いわゆる、ガイドラインというものに示されるものだろう)と異なることが選択される場合が考えられる。「そんなことをして、訴えられたらどうするんだ。」という方もいらっしゃるかもしれない。著者の一人である中井は、民事に限らず刑事事件も含めて、数多くの医療訴訟をお手伝いしており、法廷に立ったことも度々ある。訴えられたとしても、勝てばよいだけであるし、「医療行為の決定過程で考えたこと」をきちんと明示できれば、そうそう大きく敗訴することはないと考えている。医療の場におけると同様、法廷においても堂々と主張すればよいだけのことだ。それより何より、信頼関係が構築できていれば、結果の如何にかかわらず訴えられることもないだろう。それでも…と気になる方もいらっしゃると思うので、本書では直接関係がない内容ながら、あえて一項を取って「責任」についても記しておいたのでご参考にして頂ければと思う。
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ところで、この本は女性の診療に携わる医師のみに読んで頂くことを目指したものではない。看護師・助産師や保健師、あるいは社会福祉士、さらには医療にかかわる学際的な世界にいらっしゃる方々にも手に取って頂ければと考えている。そのような方からは「そんなこと言ったって、お医者さんは医学しか語らないし、医学を押し付けてくるだけじゃない…」という批判を被りそうだ。その通りである…その通りではあるが、それではいけないのだ。看護師や助産師には、看護学や助産学という学問が背景に控えている。それを支えに、医学を背負った医師に対峙して頂きたい。社会福祉士の方も同じである…社会福祉学という学問の裾野は広い。社会学や政治学、さらには法学など、多彩な学問を背景に持つ専門家と連携できる立場にいらっしゃる。だからこそ、白衣を着た医師たちと向き合って頂きたい。生きづらさを抱えた女性、特に妊娠女性は、医学だけでは到底支えられないのだ。
著者の中井は医師であり、25年にわたって医学部の臨床教員をしてきた。本来ならば、医学の知見にのみ足場を置いて、患者さんに―というよりも、患者さんの身体に―向き合っているはずであった。しかし、産科領域において頻発した医事紛争…医療訴訟における医療者側の支援に深く携わるようになり、その結果として医療者が考えるようになった安直な防衛医療に嫌気がさしてしまった。防衛医療の対角に位置するかもしれないが、患者さん―そのほとんどは妊娠女性であった―それぞれのために相応しい医療とは何かという問いに対する解を考えているうちに、あくまで医学の立場から離れられない自分に気が付いた。そこからは、大学教員の立場を利用して、社会学や女性学、法学や社会福祉学、そして倫理学など多彩な領域の大学教員を訪ねては教えを請いながら、医療実践の在り方を考えることにしてきている。
もう一人の著者である比名は川崎医科大学附属病院に勤務していた助産師であり、抱え込んだ生きづらさのために支援を要する多くの女性たちを中井とともに診てきた。そして、妊娠している女性は胎児を守る立場にあるとしても、あくまで私たち医療者の前にいるのはまず個々の女性であるという視点にたどり着いた。当たり前のことであるが、ヒト化した胎児を患者に仕立てた周産期医療者である私たちにとって、その気づきはなかなかに困難であった。…もちろん、私たちが生来愚鈍であったためかもしれないが…。そして、そのことを看護師・助産師を目指す若者に伝えることを目的に、臨床の場から大学教員へと旅立って苦闘している。
女性の診療に限らず、医学を実践する医療の場においては、医療者は全てのクライアントを生活者として捉えながら対峙しなければならない。この本はその立場に奉じる私たちが、生きづらさを抱え込んだ女性を例にとって考えたことを記したものである。
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標準化という概念とは無縁である多彩な場で生きる女性(男性でも同じであるが…)を診るにあたって、その生活―というよりも広い意味での「生きざま」―を視野に入れた医療の在り方を考えるためのマニュアルなどはない。想像力とそれに基づく共感力を発揮して、できるだけ寄り添おうとすることしかできない。そして、唯一の正解というものもない。だから、本文では「…かもしれない」とか「…とも考えられる」という末尾の文章がやたら出てくるはずだ。この本では、いくつかのモデル化した女性たちに向かい合った時に、多元的な視点から医療者として考えたことを提示しているだけである。いわば、「考え方」の見本の一つを示すだけである。私たちが考えたことはここに提示したが、読者諸姉諸兄においてはまた別の考え方をお持ちであろう。それは、当然のことである。
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考え方の見本を提示するにあたっては、なるだけ常識に対する疑問を提示することから始めた(特に、第1章と第3章)。もちろん、常識的な解(主流派の解)を完全否定しているわけではない。常識的な解を否定できない一方、非常識と思われる解もまた尊重しなければならないということだ。標準化という言葉が無力化されるゆえんである。
本書を出来るだけ批判的に読んで頂き、医療者の「常識」というものに問いかけて頂ければ幸甚である。
令和4年6月
中井祐一郎 比名朋子