はじめに
皆さんが本書を手にとられた理由としては,民法(債権法)改正関係の書物が多く出版され,医療関係の雑誌などにも改正民法にどう対応するかといった特集が組まれているから,「気になって」というケースが多いのではと思う.個人情報保護法の施行や改正などの際にも,どの程度本気で読まれているのかわからないが本がよく出ていた.いろいろ病院関係者と話すと,けっこう誤解・曲解があり,結局は本は買われているが読まれていないことがわかる.本を読まないと言えば最近の若い人は活字を読まないなどと揶揄する声もあるが,ウェブサイトの記載は多くがテキスト情報であり,紙に印字こそしていないがテキスト情報は依然として情報伝達の重要手段である.決して「活字離れ」ではなく,断片的な情報収集が多くなっているのだと思われる.おそらく,正しく法令の内容や知識を理解していないのは,必要だと感じたときにGoogleなどで検索して,当該事案のことを書いていそうなことを鵜呑みにして,あるいは独自の解釈でこうだと思っているからかもしれないし,講演会やテレビ番組などで弁護士が質問に答えるのを聞いて「確信」に至っているからかもしれない.
しかし,同じ「正しく」記載された法律家の説明を読んでも,法律学についての基礎知識がなければ,「正しく」読めるかどうかはわからない.例えば「ステロイド剤は,しばしばオリンピックを目指すアスリートからも検出される.もちろん,ステロイド剤の使用は競技能力をアンフェアに向上させるし,使用自体,肝障害などのリスクを伴うから,国際アンチドーピング機構(WADA)によって厳格に禁止されている」「アトピー性皮膚炎の治療において,多くの皮膚科医はステロイド剤を使用している」という二つの文章は「正しい」記載であるが,医学知識のない患者が読むと,自分の塗っている外用剤が,肝障害を起こすと確信して怒鳴り込んで来るかもしれない.アナボリックステロイドと副腎皮質ホルモンの違い,外用剤使用と血中移行率,全身への影響を呈する濃度くらいは説明するのだろうが,両者の構造上の違いと,なぜ「同じステロイド骨格」を有するのに作用が異なるのか,血中に移行していないとどうやって確かめるのか,具体的にどの程度の外用をすると影響が出るのかといった質問に対しては,正確に回答できない,エビデンスを示すことがすぐにはできない医師がむしろ多いのではないかと思われるが,素人は「両者は違うものだ」「外用と内服では効果や副作用が全然違う」ということも知識がないと全くわからないものなのである.本書は,民法についても,副腎皮質ホルモンとアナボリックステロイドは「違うものだ」というくらいの知識を持っていただくことを目的とした本だと思ってもらえばよいと思う.
もっとも,脱線になるが,ちゃんとしたメーカーが湿布薬が関節内に有効成分を浸透させて痛みをとるといった広告を打っているところをみると,医学知識や科学知識についてのいろいろな誤解の程度は,医師の間での法律についての誤解・曲解より大きいのかもしれない.
今回の民法改正も,時効や保証の関係など医師や病院に関係する改正はいくつかあるが,本書は,そのような改正点も含めて,もともと民法はどのような法律で,どのような場面に使われるのかということを,法律の世界に縁が遠いと言われる医療従事者や病院関係者にわかりやすく説明するために執筆した.
民法や刑法といった基本的な法律,あるいは憲法という人権を規定した法律について医療界が疎いのは,監督官庁の厚生労働省が,いまいち法的マインドに欠けるところがあるからであろう.法や人権は,国民すべてが知っていることが前提になっている(「法の不知は許さず」というのが法諺として知られている).厚生労働省のいい加減な法律判断にだまされないためにも,法律の基本をかじっておくことは重要ではないだろうか.
本書であるが,改正前の条文と改正後の条文を並べて記載している.法律家など,従前の民法に慣れ親しんでいる方が読む場合には,変更点を理解するためにそのような記載の書物が主流であるが,医師の皆さんはそもそも民法なんてちゃんと読んだことはないから,改正されたんなら一から勉強するけど,混乱するから改正法だけ説明してよという気持ちになると思われる.
しかし,今回の改正民法は,改正法の適用については,契約法関係などでは,契約締結時の条文に従うことになっている.例えば診療契約も契約なので,3年前の入院で,ずっとみていた患者が結局亡くなったとして,診療契約上の義務違反を主張された場合,適用される民法の条文は改正前の条文である(措置法に詳細が記載されている).
したがって,実際の事案を検討する法律家は,改正前後の条文を知っていないといけないので,資格試験などはけっこうボリュームが増えることになり気の毒である.
読者として想定している医師の皆さんも,改正法だけ勉強していて,pitfallに入ると何のために本書を読んでいただいたかわからないので,改正前の条文も挙げておいた次第である.逆に言うと,しばらくは改正前後の法の適用から検討して,判例や解釈も改正で改正前後法いずれが適用されるとしても影響を受けるので,生半可な知識で判断するのは危険である.本書でなるほどと思った方ほど,法律家の意見も聞いた上で行動して欲しいと考えている.
本書が,そんな医師や医療従事者,病院関係者に役立てば幸いである.
なお,本書は債権法の改正部分についてのみ執筆したので,総則・物権法や親族法については触れていない.これらの規定を前提としないとわかりにくい部分も多々あると思うが,総則など一般向けの解説書で補充いただくことでご容赦いただきたい.機会があれば,民法総則についても解説書を執筆したいと考えている.
2022年1月
田邉 昇