はじめに
私は,これから医師になろうという若い人たち,あるいは医師になったばかりの人たちに,「医とは何か?」という問題を考えてもらおうと思い,この本を書きました.しかし,あらかじめお断りしておきますが,この問いにはたった一つの正解というものがありません.というか,実はこの問いに対しての答えはいくつも考えられるのですが,私自身にとっても,どれが正解なのかを決めることがまだできていないのです.
この世の中には,たくさんの人々が長い時間をかけて考えてきたのに,まだ正解を見出すことのできない問題が,数多く存在します.しかし,それらの問題の多くは,入学試験問題のように正解に到達するのが難しいというようなものではなく,いくつもの答えが出てきてしまって,一体どれを正解としてよいのかを決め難いというものです.「医とは何か?」という問題は,その一つであり,まったく解答できないという意味ではなく,どれが正しい答えなのか迷うような,いく通りもの答えが出てきてしまうという,そういった理由のために答えを出すのが難しい,という問題なのです.「医とは何か?」という問題を考えた時には,今日一つの正しいと思われる答えが生まれたとしても,同じ問題を明日考えた時には,どうも違うな,別の答えに変えた方が良いな,と思うようなことが起こるのです.ですから,医師を志す,あるいはすでに医師である皆さんには,「医とは何か?」という問いに対する答えを,絶えず探し続ける努力が必要なのです.これが正解だと思い込んでしまうことをせず,一つの答えを見つけたなら,もっとふさわしい答えがあるのではないかと,再度考えてみなくてはならないのです.「医とは何か?」という問いに対する答えを,常に新たに考え続けていくことこそが,医師の務めだということもできます.
皆さんが,これから医を実践していくにあたっては,ヒトの身体の構造や機能,そこに襲ってくるさまざまな病やそれによって惹き起こされる障碍,そしてそれらの病や障碍への対処法など,実に多くの知識を身につけねばなりませんし,診察方法,注射,手術,あるいはさまざまな検査手技や検査結果の解読といったものにも精通していかねばなりません.医を実践するには,これらの知識(knowledge)が必要不可欠です.皆さんは,医学部学生として,あるいは研修医として,これらの膨大な知識を一生懸命学んでいる,あるいは学んできたはずです.それらの知識が不十分なまま医を実践することは,危険極まりない無謀な企てと言わざるを得ません.しかし,医の実践にはもう一つ大事なものがあります.それは,そういった知識をうまく使いこなし,社会的に意義のある医を実践していくための智恵(wisdom)です.しかし,この智恵というものは,19世紀の英国の桂冠詩人テニスン卿(Lord Tennyson)が“Knowledge comes, but wisdom lingers.”(知識はやってくるが智恵は佇んでいる―Locksley Hall)と詠ったように,なかなか得られないものなのです.智恵を身につけることは,知識を得ることほど容易ではありません.医の実践のための智恵は「医とは何か?」という問いへの答えを探し続けることで,はじめて手に入れることができるのだと思います.私は,この本を通じて,皆さんがその問いを考え続けるためのお手伝いをしたいと思っているのです.
2022年3月
岩田 誠
出版社からのコメント
お寄せいただきました書評をご紹介
岐阜大学大学院医学系研究科脳神経内科学分野教授
下畑享良先生より
著者の岩田誠先生は脳神経内科の領域のオーソリティとして,誰もが認める存在である.ご趣味は幅広く,「ビオラ演奏,物書き,野菜作り」であり,多芸に秀でた先生でもある.そしてご子息は同じ道を志し切磋琢磨する私の友人で,かつ同い年であるため,私は先生のことを「もし脳神経内科医の父親がいたら,あのような感じかな」と勝手に想像し,先生の著作やエッセイを拝読してきた.とくに影響を受けたのは『神経症候学を学ぶ人のために』(医学書院;1994),『見る脳・描く脳 絵画のニューロサイエンス』(東京大学出版会;1997),そして『頭のなかをのぞく 神経解剖学入門』(中山書店;2013,萬年甫先生著,岩田誠先生編集)である.『臨床医が語る 認知症と生きるということ』(日本評論社;2015)は,医学部1年生の課題図書として使用させていただいている.また先生がご留学されていたフランスの神経学の歴史に関する論文や解説も大好きである.私がシャルコー先生のファンになったのは先生の影響だ.
その先生が,若手医師と医学生向けの本を初めてご執筆された.本書の一部は,先生が2020年までの十数年間,東京女子医科大学教授として教鞭をとられていたときに行った「病気や健康とは何か?」「科学と技術はどう違う?」「脳死を知ろう」といった講義やワークショップがベースになっている.いずれの課題も学生間で白熱した議論が交わされたことが想像できるが,先生の用意した答えは非常に奥深く考えさせられる.おそらく本書を手に取り,同じ体験をする医学生や若い医師も,「健康」「セカンド・オピニオン」「EBMとNBM」「脳死」などの言葉の本質的な意味を知り,医療者の役割を垣間見,そして医療者である前に立派な人間になることの大切さを学ぶことになると思う.
そして本書は決して,医学生や若い医師のためだけの本ではない.先生がどのようにして脳神経内科医としての道を選び,そして素晴らしい先輩医師・研究者や,ハンセン病患者さんなど多くの患者さんとの出会いを通して成長されたかを書き綴った箇所は非常に印象深かった.またALS患者さんの自殺幇助事件に対するお考えや,医の倫理とは一体何なのかを書かれた箇所は極めて重要なご指摘であり,大変勉強になった.本書は多くの経験を積んだ医療者にとっても,改めて「医(メディシン)って何だろう?」と考える機会を与え成長を促すと思う.
個人的に一番,関心を持って読んだのは,医療における「科学(サイエンス)と技術(アート)」に対する先生の考え方である.「医療の二分法」という言葉があるが,医療には「科学(サイエンス)と技術(アート)」「知識と智恵」「治療と癒し」などと分類することができる二面性がある.この観点から現代の医学教育を眺めてみると,膨大な「科学」「知識」を教えることにもっぱら集中し,「技術」「智恵」を教える場面が極端に不足しているように感じる.自身を振り返っても,「智恵」につながるリベラルアーツ教育が大切だと考えてきたものの,「科学と技術」「知識と智恵」といった両者の関係についてはあまり考えたことがなく,対立する二律背反のような関係にあると思っていた.
先生は「科学と技術」「知識と智恵」をどのように育み磨くべきかご自身の体験をもとに,私たちに示してくださっている.「科学(サイエンス)」の本質は「観察する心」,すなわち先入観なく目の前のものを見て,その原理を発見することだと教えてくださる.そうなると,詰め込み式に医学知識を教えるだけでは「科学する心」を育むことはできないと容易に気づく.一方の「技術(アート)」は「知識」を使いこなすための「智恵」として重要であることを示したうえで,それは簡単に身につくものではなく,その修得のために「医って何だろう?」と問い続ける姿勢が求められると強調されておられる.つまり「知識と智恵」「科学と技術」は対立するものではなく,医療の裏表であって,医療や医学教育の現場において,どのようにその両立を図るのかを意識し,追求することが今後の課題だと理解できた.
それにしても驚いたのは,先生ほどの医師であっても「医って何だろう?」という問いに対し,「いまだどれが正解なのか決めることができずにいる」と書かれていることだ.この文章を読んで,あるべき理想の医療を真摯に追求しつづける,目標とすべき父親の姿を見たような気がした.
(初出:CLINICAL NEUROSCIENCE Vol.40 No.5 2022年5月 刊行)