Preface
脳卒中の理学療法が難しいのは,身体を活動させる中枢神経システムの最上位にある大脳が部分的に損傷する疾病に対して,運動機能を回復させ動作を成立させることを外部から働きかけなければならないことである.すなわち,身体を動かす複雑なシステムの障害を直接見ることができない状態で,身体を介して神経機能を修復や活性化しなければならない.そこでは,自分の施した刺激介入や課題設定が障害された神経システムの再構築に有効に作用するかどうかを,反応から推察して判断しなければならない.運動を支配する神経システムが複雑なゆえに,同じ脳卒中であっても症例によって,あるいは同一症例であっても条件の変化により,それぞれ反応が異なることがほとんどでありさらに難しさを増す.
では脳卒中の理学療法においてエビデンスは不要であろうか? 私たちは理学療法を何も根拠なく行っていることはほとんどない.検査は何かしらの正常と異常の区別をつけるし,評価はこれまでの経験や周囲の患者と比較して「障害が重たそう」とか「よくなりそう」と判断している.治療も同様に「こうしたほうがよくなるであろう」と判断しつつ,個々の方法や頻度・量を選択している.しかし,自分が果たして最適な判断を下せているかについては,知識や経験が限られ,また実際には偏るために不安定である.したがって科学的根拠により客観的な裏付けがどうしても必要になる.
ところで,現在提示されている脳卒中の理学療法に関するエビデンスがどの程度臨床に役立っているであろうか? 脳卒中リハビリテーションの一般的なリスクや予後については多く見受けられるようになってきたが,具体的な指標については不明確で証拠が不十分なものが多い.個々の治療のエビデンスは,環境や器具などを特定の条件に制約した状態で得られたものが多く,そのような条件を具備していなければ,自分にとってエビデンスが遠いものに感じてしまうことが多い.
このように現時点で具体的で,明確な,共通した脳卒中理学療法のエビデンスは非常に少ない.個々の治療に確立された具体的なエビデンスが出現するには,もう少し時間がかかるであろう.また将来的にもエビデンスが得られないものも多いかもしれない.ではどのようにしたらよいであろうか? 理学療法は主に運動機能障害を扱うが,運動機能に関する基礎的な研究は多くのエビデンスが存在する.それらをもとに治療の骨格や背景的裏付けを行うことにより,自らの治療に一定の基準を与えることができると考える.
そこで本書では,脳卒中の神経システムに関連する,求心性・遠心性神経制御システム,認知機能,脳の局所機能,および脳卒中の運動や動作に関連する,関節運動学,動作運動学について,臨床上ポイントとなる重要なエビデンスまたはヒントを提示することとした.またそれらが臨床において具体的にどのような症状でみてとれるのか,どのように評価し,どのように治療に応用すればいいのか,を例示することで実践できるように配慮した.この趣旨にご賛同いただいた全国のベテランから若手まで脳卒中理学療法に携わる専門性の高い先生方にご執筆いただき,臨床に大変参考となる知見を集約することができた.本書が臨床に直結するエビデンスとして日々の治療の根拠となり,読者の先生方の自信につながれば望外の喜びである.
最後に,大変お忙しいなかご執筆いただいた執筆者の皆様,編集・校正でお世話になりました中外医学社の上岡様,中畑様に感謝を申し上げます.
2022年2月
渡辺 学