はじめに
本書は,医療サービスの経済評価の手法や論文の読み方についての解説書である.読者対象は,すべての医療従事者,および製薬企業や医療機器産業の従事者の方々である.
高額な医薬品や医療機器が次々に開発され,医療の現場で使用されている.がん治療薬や低侵襲手術など,画期的ではあるものの高価な治療技術が次々に実用化されている.これら医療サービスの効果のほどはさまざまである.従来の医療サービスと比較して,効果が顕著に優れている場合もあれば,効果の上乗せはほんのわずかに過ぎない場合もある.
従来からある低額な医療サービスと比べて,新規の高額な医療サービスが,その費用に見合った効果を有するかどうか,それを定量的に評価する試みが,医療経済評価(health economic evaluation)といわれる手法である.
「経済評価」といっても,それほど難しい話ではない.例えば,自分でチョコレートを購入する際に,コンビニエンス・ストアに売っている数百円のチョコレートと,百貨店に売っている数千円のブランド・チョコレートのどちらを購入するか,という状況を考えてみよう.数百円のチョコレートに比べて,数千円のチョコレートはより大きな満足を与えてくれるかもしれない.問題は,その追加的な満足に,数千円を支払う価値があるかどうかである.とても裕福な方々であって,数千円の出費が痛くもかゆくもない人ならば,さほど躊躇なくブランド・チョコレートを選ぶかもしれない.しかし,圧倒的多数の庶民は,自腹で買って自分で食べるならば,コンビニのチョコレートを選ぶに違いない.なぜならば,数百円のチョコレートもそこそこおいしく,十分に満足を得られるからだ.
さて,チョコレートと医療サービスには,どのような違いがあるだろうか? チョコレートは,手に入らなくても困りはしないし,消費しなくても少なくとも命に関わりはない.一方,医療サービスは手に入らなければ直ちに困るどころか,命に関わることもある.
チョコレートを買うための費用は,消費者が全額自己負担しなければならない.ブランド・チョコレートを買うお金がなければ買わなければよい.一方,医療サービスは,お金がないから手に入らないという事態を避けるため,公的保険や税がつぎ込まれている.消費者(=患者)に資力がなくても購入できる.国民皆保険制度と高額療養費制度によって,患者は低負担で医療サービスを受けられる.言い方を変えれば,受けた医療サービスの費用について,患者が支払う分は一部であり,それ以外は患者でない国民が保険料や税の形で支払っている.ここに医療経済の複雑性がある.
高額な医薬品であっても,保険適応になれば,高額療養費制度のおかげで,患者の自己負担は少なくてすむ.そのため医師は,費用の面ではあまり気兼ねなく,高額な医薬品を処方する.「目の前の患者にベストの医療を尽くす」という大義名分がそれを許している面もある.しかし,保険も税も打ち出の小槌ではない.財源が無尽蔵というわけではない.
昔から,医療の世界に経済合理性を持ち込むこと自体への反感が一部にはある.平等主義的立場に立てば,医療はそれを必要とする人に対して必要なだけ提供すべきであり,資源配分といった概念とは両立しえない,という主張である.
しかし,近年になって立て続けに高額な医薬品や医療機器が開発されるようになり,医療経済の問題は医療政策担当者だけの問題ではなくなり始めている.医療従事者も資源配分という問題を無視できなくなってきている.
ことに高額医薬品の問題は,医療政策担当者や医療従事者だけでなく,一般の人々にも広く知れわたるようになった.その契機となった医薬品が,免疫チェックポイント阻害剤であるニボルマブ(商品名オプジーボⓇ)である.
オプジーボⓇの日本発売当時の薬価は100mg 1瓶が約73万円.1人の患者に1年間継続すると約3,500万円という額に達した.2015年に「切除不能な進行・再発の非小細胞肺がん」へ適応が拡大された際,メディアにも大きく取り上げられた.ある医師は,仮にオプジーボⓇの対象となる肺がん患者の半分である5万人が1年間オプジーボⓇを使用すると総額1兆7,500億円となり,国民皆保険の持続可能性を揺るがす問題であると指摘した.その一方で,薬の費用は関係ない,目の前の患者に最良の医療を提供すべき,との意見を唱える医師もいた.
さて,後者の医師の,一見すると高潔な論理は,いわゆる「救助原則(Rule of rescue)」に基づくものである.すなわち,ある患者が治療によって回避可能な死に直面している際,どれだけ費用がかかってもその患者に当該治療を施して救助しなければならない,という原則である.確かに,臨床家がこの原則に公然と抗うことは困難であろう.
しかし,この「救助原則」を金科玉条のように振りかざすべきではない.目の前の患者にベストの医療を尽くすのは,ヒポクラテスの時代以来,医師が遵守すべき倫理であることは間違いない.その一方で,目の前の患者だけではなく,目の前にはいない他の大多数の患者群や患者予備群にも思いを致すべきだろう.医療のために利用可能な資源が限られている場合,「救助原則」を無思慮に適用すれば,それ以外の人々が必要とする治療やケアを受けられなくなる可能性がある.
このように医療経済の問題は,医療従事者や患者・家族を含む当事者だけではなく,広く国民を巻き込んだ議論が必要である.その議論の前提となるのが,医療経済評価,なかでも費用効果分析による定量的な分析結果である.
本書の構成は以下のとおりである.
第1章「なぜ医療経済評価が重要か?」では,本書の導入として,医療サービスの経済評価の重要性について,実例を交えて解説する.
第2章「医療の費用対効果をどのように評価するか?」では,医療経済評価の手法,生存年やQOLなどのアウトカム評価,費用の測定,増分費用効果比(incremental cost-effectiveness ratio, ICE)などの基礎知識をわかりやすく解説している.
第3章「モデルを用いた費用効果分析」では,費用効果分析によく用いられる判断樹モデルおよびマルコフモデルという手法について解説する.とくにマルコフモデルは,Microsoft Excelなどの表計算ソフトで行う簡便な方法について解説している.
第4章「費用効果分析の論文を読む」では,実際の費用効果分析の論文を読み解くためのポイントを解説する.さらに,筆者らによる費用効果分析の論文を紹介しつつ,費用効果分析において特に注意すべき実践的な事柄について解説している.
本書を通じて,読者の方々が医療経済評価の手法に関する基礎知識を学び,「医療経済マインド」を身に付けていただくことを願っている.エビデンスに基づく有効かつ費用対効果に優れる医療の実践や貢献に繋げる契機としていただければ幸いである.
2021年8月
康永秀生