序
本書執筆の話を頂いた時,「何を書くか」についてはすぐに決まった.それは「かつての自分が読みたかった本」に他ならない.
脳神経内科の外来を始めた頃,よく見かける主訴について深く掘り下げて勉強したいという気持ちが強かったが,当時はなかなか良書に巡り会えなかった.その時,「こんな本があったら良いな」と感じていたものを纏めたのが,本書である.
本書は各主訴に対して,診療のポイント,診療の流れを示した後,主な原因疾患について最新の知見を交えて概説し,診察や検査を解説している.診察では,どのように問診をおこなえばよいかなど,筆者が経験から得たコツや注意点なども記した.章末には紹介のポイント,やってはいけないご法度をまとめた.筆者の経験に加え,文献や国際的な診療ガイドラインでの裏付けをおこない,補足的な内容,文献等は,各ページ下の注に記した.
扱う主訴は,外来でよく見かける脳神経内科関連の主訴トップ10(筆者肌感覚調べ)に入る「物忘れ」「頭痛」「けいれん」「震え」「しびれ感」である.これらは,プライマリ・ケア外来での診療が頻繁に求められる主訴でありながら,治療に急を要する疾患が一部含まれる.不安感を抱えながら診療している先生方も多いことだろう.本書を読んで頂ければ,おこなうべき問診や検査,標準的な治療,脳神経内科に紹介するタイミングなどがわかりやすく学べるはずである.各章は独立しているので,苦手な主訴だけ読んで頂いてもよい.そのほか,よく見かける主訴には「めまい」もあるが,神経脱落症状を伴わないめまいのほとんどが内耳性であるため,脳神経内科医だけが解説するよりも,神経耳鼻科学の専門家の教えも請いたいところである.そこで,メディカル・サイエンス・インターナショナル社から「症状や所見からアプローチする めまいのみかた」という訳書を2020 年5 月末頃に出版することとした.
筆者は学生の頃,クラシック音楽に傾倒しており,日夜ヴァイオリンの練習に明け暮れていた.作曲家や巨匠と呼ばれる演奏家の名前をMEDLINE で検索し,関連論文を読むことも趣味としていた.そんな中,東京女子医科大学神経内科学講座の主任教授を務めていた岩田誠先生(現,メディカルクリニック柿の木坂院長)が書かれた「脳と音楽」という本を読み,感銘を受けて東京女子医科大学神経内科学講座の門を叩き,神経学の勉強を始めた.私が神経学に興味を持つきっかけが音楽であったことからわかるように,神経学は決して堅苦しいだけの学問ではない.神経学の懐の広さが伝わることを期待して,コラムを充実させた.勉強の息抜きに読んで頂きたい.
2017 年3 月に執筆を始めたときは,1 年もあれば完成すると,軽い気持ちで考えていたが,甘い考えであることをすぐに痛感した.なかなか筆が進まず,出版社の方には迷惑をかけ通しであった.文豪たちの〆切に関するエピソードを綴った「〆切本(夏目漱石,谷崎潤一郎,江戸川乱歩,川端康成,稲垣足穂,太宰治,埴谷雄高,吉田健一,野坂昭如,手塚治虫,星新一,谷川俊太郎,村上春樹,藤子不二雄A,岡崎京子,吉本ばなな,西加奈子ほか(全90 人)著,左右社)」を参考にしながら,時折届く進捗状況確認メールに頭を垂れながら返信した経験は,産みの苦しみの1 ページとして強く記憶に残っている.そして,気がつけば,3 年余りが経過していた.3 年というのは決して短い月日ではなく,生涯独身であろうと周囲から噂されていた私が,物好きな(?)女性と出会い,遠距離恋愛の末に結婚し(披露宴では岩田誠先生に主賓挨拶をして頂いた),1 歳の保護猫(サビ猫,「おこげ」と命名)を貰い受けて飼い始め,待望の第1 子が誕生するまで(※ 2020 年5 月18 日出産予定)よりも長い.この間に,日本神経学会が標榜科を「神経内科」から「脳神経内科」に変更するといった出来事もあった.本書では,「神経内科」と
「脳神経内科」の名称が混在しているが,執筆期間が長きに渡ったことに拠る.
本書執筆にあたって,福島県立医科大学の医局の皆様方を始め,多くの方
にお世話になった.また,高次脳機能障害については帝京大学脳神経内科小林俊輔先生,てんかんについては広島大学脳神経内科音成秀一郎先生に貴重な助言を頂いた.企図振戦の歴史など,多くの疑問点について,師の岩田誠先生に丁寧に教えて頂いた.神経学にあまり興味がないという小児科医の妻が「読んでみたら面白かった」と言ってくれたことは励みになった.猫のおこげは,執筆している最中にパソコンのキーボードの上に横たわることで,和やかな雰囲気を与えてくれた(執筆を中断して,すぐに猫じゃらしを取りに行ったのは言うまでもない).これらの方々に感謝する.
最後に,なかなか届かない原稿を気長に根気強く待ってくださった中外医学社の五月女謙一氏,沖田英治氏に深謝する.本書が読者の神経学への苦手意識を取り払い,自信を持って診療に当たるきっかけとなってくれれば幸いである.
2020 年3 月
井口正寛