序
手元のメーラーによると,本書の企画書を中外医学社にご提案したのが2009年の2月4日のことでした.寄生虫のプロでない医療者でも読みやすく,突き刺さりやすい寄生虫のテキストを作りたい.そういう意図で作り上げた企画でした.これを,中外医学社が超迅速に企画を承認してくださったのが同年同月6日.2009年2月.まだ,歴史は東日本大震災も経験していないし,アフリカでのエボラウイルス感染流行も経験していないし,そして新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の発生とパンデミックも経験していないときです.
結局,本書を作るのに10年以上の歳月を要してしまいました.全く申し訳ない限りです.そうなんです.そうこうしているうちに震災やらエボラやら,その他諸々のことに忙殺されてしまい,比較的スタティックな状況にあった「寄生虫の世界」はずっとほったらかされていたのでした.いや,実に,誠に申し訳ないことです.
ところで,ぼくは一介の感染症屋ではありますが,(本文をお読みいただければおわかりいただけたと思いますが)寄生虫学はあまり得意ではありません.また,ぼくは虫フェチでもありません.本書に出てくる達人の域に達した虫プロの皆様のように,腹から出てきた虫を「魚拓」にとってその大きさを競ったり,目をキラキラさせて顕微鏡でウニョウニョ動いている虫を見ながら息をハアハアさせて身悶えしたり,果ては自ら虫を飲み込んでどうなることかとドキドキ胸をときめかせるようなフェティシズムがないのです(多少,盛ってます).この業界にいる方は風の谷の姫様のように「蟲を愛でる」ところがあるのですが,そういうのが決定的にぼくには欠けています.ところで,本書にも登場する倉井華子先生は昔から「虫愛づる姫君」だったのですが(本文参照),最近はイヤリングなどのアクセサリーも虫,ゴキブリのコスプレで学術会に登場するなど,虫愛づるというよりもほとんど虫に同化しつつあるようです.カフカ的ですね.
虫に限らず,ぼくは感染症屋の中では決定的にコレクター気質を欠いているというか,菌やウイルスに対してもフェティシズムを発揮できません.
ただ,虫という「存在」よりも寄生という「現象」にはとても興味がありました.虫体そのものにはよだれはでないけれど, 生活環の??にはビビッと来ます.ハイデガーというより,レヴィ・ストロースなのです(嘘).
寄生という概念は(少なくともぼくのオツムでは)理解しづらいのです.教科書を読んでもどうもピンとこない,わかりにくい.わかりにくいことは,質問するのが一番と思い,各界のプロの皆様に教えを請おうと思ったのが本書企画のきっかけでした.
想定読者は「寄生虫マニア」ではなく,一般的医療者の方々です.よって,筋金入りのプロの方が本書をお読みになって「こんなことは俺は最初から知っていたぜ」的なクレームをされても当方は一切関知いたしませんあしからず.その代わり,「寄生虫なんてわけわかんないよ」「学生時代やったけど全然おもしろくなかった」な皆様には,本書は絶対に楽しんで読んでいただけるものと思います.「寄生虫なんてわかんないよ」「学生時代,全然おもしろくなかった」イワタが校正稿を読んで「めっちゃわかりやすいやん,めっちゃ勉強になるわー」と首肯いたのですから,間違いありません.
本書は臨床現場で時々遭遇するような寄生虫学的問題に必要な事項をしっかりお伝えしています.逆に,現場で必要ない(であろう)「細かいこと」はできるだけ省き,しかしザックリとした「構造」を感得できるようには工夫しています.たとえば,(非専門家が)ローマ時代の歴史を学ぶときは,以下のような文章がよいのです.
三世紀になると,一連のゲルマン人の侵入が続き,ローマ帝国は崩壊寸前となった.それはローマ帝国の支配が最も大きく揺らいだ時代だった.何人もの皇帝が即位してはただちに退位することを繰り返し,侵入者たちに対してほとんど抵抗することができなかった.帝国は生き残ったが,北部にはゲルマン人の領土が大きく構えるようになっていた.313年にキリスト教を初めて公認した皇帝コンスタンティヌス一世は,この混乱の時期を耐えたのち,帝国全体の再編・強化を試みた.
(超約 ヨーロッパの歴史.ジョン・ハースト,著.東京書籍.p.92)
ここで,マニアはローマ皇帝を順番に完全暗記するのですが,一般人は「何人もの皇帝が即位してはただちに退位」でよいのです.こうやって,ローマ帝国滅亡というざっくりした「構造」を体得できれば十分というわけです.本書は「そういうもの」を目指しています.
ところで,読者の皆さんはMKSAPというものをご存知でしょうか.これはMedical Knowledge Self-Assessment Programの略で,アメリカの内科専門医試験なんかを受けるときの解説書かつ問題集です.非常に質の高い教材なのですが,これにMKSAP Audio Companionというのがあって,音声で同じコンテンツを解説してくれています.全米各地の専門家にミネソタの内科医,Donald Deye医師がインタビューするという方法でとても勉強になるのです.まさにソクラテス・メソッドで,Deye先生が臨床医の迷いそうなポイントを的確に質問し,専門家がこれに答えるという方法をとっているのです.とても頭に入りやすい.
こういうコンテンツがあるといいな,とぼくは前から思っていたのですが,それを本書ではちょっと具現化できていると思っています.質問,答えがポンポンと続くテンポの良さ.みなさんも同様の「学びやすさ」を本書で追体験していただけていれば,これ以上の幸せはありません.
最後に,本書企画当初からお世話になった中外医学社の岩松宏典様,ぼくの乱筆校正に丁寧に対応していただいた同社の中畑謙様に心から御礼申し上げます.そして,本書作成にあたり,ご多忙のところお時間をとっていただき,イワタの数々の阿呆な質問に丁寧にお答えいただいたプロの先生方にこの場を借りて心から御礼申し上げます.
2020年3月
岩田健太郎