序 文
私が認知症と自動車運転の問題の重要性に気づいたのは,1996年愛媛大学に赴任してからだったと思います.すでに大阪や東京,兵庫で認知症の診療や研究を始めていましたが,認知症診療の中でこの問題が患者と医師の信頼関係を揺るがすほどの問題になりうることや,高齢者の運転と社会の安全の両立が超高齢社会を迎えた日本で,地域社会のあり方そのものに関わるような課題であるという問題意識は持っていませんでした.もちろん,当時はまだまだ運転を継続している人が少なかったこともありますが,アルツハイマー病などによる認知症の診断が決まった患者さんや家族に,残念ながら認知症になると事故のリスクは高まるので,バスや地下鉄を使った生活に切り替えるように指導しても,都市部ではそれほど大きな抵抗はありませんでした.
ところが,愛媛大学での診療は全く異なりました.認知症が中等度まで進行し,自損事故を繰り返しているような患者さんや家族に運転中止を勧める場合でさえ,「それほど言うなら止めてやるが,2度とこの病院には(運転できないと)来られないからな」,「みかん畑から農協まで,誰がみかんを運ぶのですか? 我々に死ねと言うのですか」,「お父さんが運転できなくなると,私も免許を持っていないので,買い物にも役場にも行けなくなります」と,突然診察室に緊張が走りました.何か指針となるような研究がないか探していたところ,隣県の高知県で上村先生が全国に先駆けた研究を始めていることがわかりました.そこで,上村先生達と認知症の高齢者の運転実態の把握と運転中止後の支援に関する厚生労働省の研究班(2003年-2006年)を立ち上げました.
その後,本書にも執筆してくださった先生方や多くの研究者,警察関係者,司法関係者の地道な努力の結果,2017年の3月に内容が大きく改正された道路交通法が施行され,認知症と自動車運転の問題は大きな節目を迎えたと思われます.しかしながら,10年以上前に我々の研究班が指摘していた,運転中止後の十分な支援や少なくともグレーゾーンの対象への実車検査の導入,認知症の運転リスクに関するエビデンスの構築は,まだまだ十分とはいえませません.むしろ,地方では公共交通機関網が衰退し,高齢者を含む世帯の構成人数が減少し独居高齢者が急増するなど,社会の状況は厳しさを増しているようにも思われます.超高齢社会の中で,新オレンジプランにも掲げられているように認知症の方や高齢者の皆さんが住みなれた地域でその人らしい生活をできるだけ長く続けていくことができるように,読者の皆様が改めて高齢者の運転問題を考える機会にしてくだされば望外の幸せです.
2018年8月
池田 学