序──腫瘍循環器とは
わが国において死因のトップはがんであるが,後期高齢者に限ると循環器疾患で亡くなる人のほうが多い.したがって高齢者はがんか循環器疾患で亡くなることが多く,またがんと循環器疾患をともに発症する人も多いと考えられる.一般的に循環器疾患にがんはないが,がんと循環器疾患では2つの接点がある.1つは,アドリアマイシン心筋症に代表される抗がん剤による心筋傷害である.再発を繰り返す白血病や肉腫の患者に対しては,現在も大量のアドリアマイシンが投与されるために,がんは克服したものの後年重症な心不全を発症することがある.アドリアマイシン心筋症は予後が大変不良であり,心移植が必要となることも多い.アドリアマイシンほど心毒性は強くないものの,ほとんどの抗がん剤には心毒性がある.例えば乳がんの治療薬であるトラスツズマブは,心筋細胞にとって最も重要な保護シグナルであるニューレギュリン−ErbBシグナルを抑制し,大腸がんなど多くのがんの治療に用いられているベバシズマブは心臓にとって重要な血管新生を抑制する.これらの抗がん剤は,単独では強い心機能障害をもたらさないかもしれないが,高血圧などの合併症や心筋梗塞の既往などのある人やアドリアマイシンとの併用では高率に心不全を惹起する.高齢者は皆心不全予備軍ともいえるので,高齢者に対する抗がん剤治療は十分な注意が必要である.もう1つのがんと循環器疾患の接点は血栓である.高齢者が血栓塞栓症を発症したらがんを疑えというくらい,担がん患者では血栓塞栓症を発症することが多いことは昔からよく知られていたが,抗がん剤による治療がさらに血栓塞栓症を促進することはあまり知られていない.また担がん患者は易出血性でもあるため,血栓塞栓症に対する抗凝固療法も容易ではない.外来治療を受けている担がん患者の死因の第2位,約10%は血栓塞栓症であるといったデータもある.
腫瘍循環器の目指すべきゴールは,担がん患者が上記のような循環器疾患を発症しないで十分ながん治療を可能とすることである.そのためには,実態把握のためのレジストリー研究を行い,さらに抗がん剤の心毒性や血栓形成の分子機序の解明から新規の予防法や治療法を開発することが重要である.がん専門医と循環器専門医が連携することにより腫瘍循環器学が進歩し,ひとりでも多くの担がん患者が救われることを祈念したい.
2018年6月
東京大学大学院医学系研究科循環器内科学教授
小室一成