序
これまで,神経診察法や神経診断学に関する多くの名著が世に出されてきたが,神経症候学に関する書は意外に少なかった.かねてから,臨床の場で実際の患者を前にして,患者が示してくれている一般的な症状から多くの鑑別診断により疾患を想起し,さらに神経学的診察によって得られた症候を加えることで神経疾患の適切な最終診断に至る「手順」を学び取ることができる,臨床の実践に役立つ書があれば,と考えていた.
神経疾患が呈する症状はきわめて多彩である.頭痛,めまい,しびれなどの一般的なもの,意識障害,筋萎縮,認知機能低下などの神経疾患に特異的なもの,さらには,あたかも一般内科的な腹痛,食欲不振,悪心・嘔吐にいたるまできわめて広い範囲にわたる.神経疾患の診察は,まず患者の訴える主訴や患者の呈する症候のなかから,神経疾患に由来するものかどうかを検討するところから始まる.広大な宇宙にばらまかれているような多彩な神経疾患の主訴や症状から,眼の前にいる患者が神経疾患患者であることを洞察し,さらに,主訴や症状を重み付けすることにより,患者にとって最も重要なものを抽出する作業が診断の第一段階である.バイタルサインのチェックを経て,神経学的診察に進み,病巣診断をへて,鑑別診断へいたる.そして,検体検査,画像,電気生理などにより疾患の全体像を把握して確定診断に到達する.このきら星のような神経疾患の主訴を短時間で適切に絞り込んでいく思考操作,そしていかに確定診断への最短コースを取ることができるかが,臨床医としての真の評価につながる.すなわち,神経疾患の診断には,「主訴・症状から確定診断への診断手順をマスターすることがきわめて重要である」ということができる.
神経疾患というと,一般に難病を中心とする狭い疾患群であるという印象を強く持たれている傾向がある.しかし,本書をお読みいただくと理解されるように,特に神経内科は初診の診断の時点ではいわば「総合診療医」的な役割を担っていることがわかる.このことは,内科系・外科系を問わず,臨床医学の多くの領域の現場に広く知っていただくべきであると考える.
本書は,このような神経疾患の多彩な症状の中から重要な「主訴」を抽出し,そこに潜む無限に近い疾患群をどのように鑑別診断し最終診断に至るか,という「診断手順」を学び会得していただくことを目的とした.主訴としては,神経疾患患者が自身の症状として訴えやすい代表的な17の表現を想定して解説した.すなわち「物忘れ」「しゃべりにくい,のみこみにくい」「言葉がでない」「ものが見にくい」「ものが2つに見える」「まぶたが下がる」「頭が痛い,顔が痛い」「眼が閉じない,口から水がこぼれる(顔がおかしい)」「めまいがする・ふらつく」「力が入りにくい」「勝手に手足が動く」「動作が遅い」「しびれる,痛む」「尿の回数が多い,尿が出にくい」「歩きにくい」「けいれんする」「意識が悪い」である.神経内科外来を初診として訪れる患者の主訴として90%以上がこれらに包含されると思われる.これらの主訴から,どのくらい鑑別疾患を想定し,神経学的検査,補助検査により確定診断に到達するか,ぜひ修練を重ねていただきたい.
本書作成にあたり,執筆いただいた慶應義塾大学医学部神経内科出身の多くの先生方に深甚の謝意を表する.特に,編集作業で私の右腕となって支えてくださった同神経内科専任講師清水利彦先生に心から感謝する.
2018年3月吉日 医学部信濃町キャンパス教授室にて
鈴木則宏