序文
裁判とは、事実を精密に分析する場である。
法廷にうつ病が登場すれば、うつ病を精密に分析する。判決文は法という異界から見たうつ病論である。そのうつ病論たる判例から、刑事・民事あわせて22件を厳選し、逆に医の立場から論じたのが本書である。
裁判はうつ病を精密に分析する。但し精神医学とは目的が違う。
裁判の第一の目的は当の事件の解決であるが、第二の、そしてより大きな目的が、先例として後の裁判の準拠枠になることである。それは同時に社会に示された行動指針という性質を持つ。日常の医療においても訴訟を意識しなければならない時代になっている。患者が自殺した場合の責任の所在。労働者の解雇や自殺における主治医・産業医の立ち位置。そして刑事事件の精神鑑定のあり方。医学者が判例を知ることの意義は大きい。
裁判はうつ病を精密に分析する。但し精神医学とは方法が違う。
キーワードは証拠裁判主義である。確固たる証拠だけに基づいてなされる分析は、医をはるかに超えた精密さを有している。それは精神医学において慣習的に行われている診断手順の見直しを迫っているかのようである。
精神医学はうつ病を精密に分析する。但し裁判とは目的も方法も違うから、全く別の風景が立ち現れる。
医の目的は治療である。常にうつ病本人のためになされる。だがそれは公正中立の放棄にほかならない。公正中立の放棄は客観性の放棄である。そうした医に内在する性質に基づく判断バイアスがいかに大きいかが、うつ病が法廷に持ち込まれるとありありと露顕する。病気は医学の縄張りだと医学者は無邪気に信じているが、裁判のほうがよほど正確に病気を見つめている点が多々あるのだ。
医の方法は証拠主義ではない。裁判における事実の追究に比べると、医の事実認定は非常に甘い。だが現実社会は証明できる事実ばかりから成り立っているのではない。証拠だけを材料にする作業が真実を明らかにできるとは限らない。その意味で裁判にもバイアスが相当にあり、医のほうがよほど真実に到達している点が多々あるのだ。
法と医の目的と方法の違いは、医学界とは全く異質のうつ病論を法廷に生み出している。判決とは一種の価値判断であり、裁判所の判断は定義上正義であるから、医の側から異質感や違和感をいくら申し立てても、それは賊軍の論理にすぎない。だが精神医学の少なくとも一部は科学であるから、科学部分について医と法に齟齬があれば、誤っているのは法の側である。価値判断とは認定された事実を土台にするものであって、その事実なるものが非科学的であれば、そこからいかに精緻に論を構築しても誤った結論しか導かれない。かかる誤りが名目正義である判決の中に散見されることは社会にとって不幸なことであるが、逆に法の視点から見れば、医学論文や医療文書にも多数の欠陥が見出されるのであろう。それもまた、判決文の中に映し出されている。
法と医の違いは目的と方法だけではない。言葉が違う。
およそ専門用語とは一定の技術的要求にしたがって創出されたものであって、門外漢の理解の外にある。責任。発症。過失。回復。予見。意識。・・・。さりげない表情をしたこれらの言葉も、ひとたび専門家が口にすれば日常用語からは逸脱した意味を纏って歩き出す。法律用語と医学用語のこのような混交が、うつ病をめぐる裁判の日常風景である。そこでは医は法にとまどい、法は医にとまどう。
しかし最も混迷を極めている言葉はうつ病そのものである。うつ病概念の拡大と混乱が精神医学界で問題とされてすでに久しい。その影響を最も大きく受けているものの一つが裁判であり、そして裁判は社会を動かし、混乱に拍車をかけている。混乱の源は、すなわち責は、精神医学にある。精神医学が混乱させたうつ病概念は、法廷という異界でさらに改造され、判決文として社会に戻されたうつ病はもはや鵺の如き奇態なものと化している。
法と医が別々の平面で活動し続ける限り、この混乱は増幅することこそあれ、収拾に向かうことは考えられない。本書は法と医それぞれの実務に役立つことが一義的であるが、その一方で、法と医の健全な融合への一石となることを目指したものである。
2017年5月 著者