緒言
物事を習得するには2つの異なった方法論があります.一つは,オーソドックスに,基礎から順番に「知識・理解と実践」を積み上げていき100点満点に到達するというやり方です.ほとんどの学問の学習ステップはこの方式を採用しています.しかも,1から10まで進んだら,また,5に戻って5から15まで進めていくという“しゃくとり虫”のような方法論が小学校から高校までの学習のパターンです.実際,日本史や世界史は,社会科として小学校でも中学でも高校でも習いますが,少しずつその内容が詳しくなっていきます.このような確実・堅実な方法論で,私を含め多くの方がいろいろなスキルを習得してきたはずです.数学の証明法にたとえると「帰納法」のようなものです.これは学問の習得だけでなく,野球でもテニスでもゴルフでも同じです.何でも“基礎が肝心”だ,ということで素振り,ボレーキック,ドライバーの練習を飽きるほどやるわけです.飽きるほど基礎練習をした後に,やっと練習試合に出してもらえますが,本番の試合出場まではかなりの時間がかかります.
ところが,この方法とは真逆で,基礎がある程度身についたら,すぐにトップレベルの応用問題を解かせる方法も存在します.つまり10点ぐらいとれる力がついたら100点レベルの超難問を解きにかかり,その正解を得るステップでその分野で必要なものを逐次習得していくというパターンです.こんな方法論が成り立つはずがないと思っていたのですが,実は私どもの最も身近にある臨床医学では,医学生が医師免許を持ったとたんに,あたかも「中学生に対して,大学入試レベルの数学の問題を解くことを要求する」ような教育・研修パターンがよく見受けられます.私も,医師になりたてのころ,90歳超えた重症肺炎の症例を受け持ち,毎日抗生物質の勉強をしていると,その非常に狭い分野では,オーベンの先生より豊富な知識を自然と有することになっていました.次いで受け持ったのがウイルス性心筋炎の症例でしたが,毎日泊まり込んでその症例に当たっていると,重症心不全の診断と治療が自然と身についてくるわけです.そして,重症心不全がうまく診られるようになると,その基礎編だった軽症・中等症心不全は何に気をつければ重症化しないかということがおのずからわかってきます.数学の証明にたとえれば,さしづめ「演繹法」でしょうか?
この後者の方法論こそがまさしく本書が目指すところです.本書は,通常よく遭遇する軽度・中等度の心不全の診断・治療の習得をめざす医療関係者が,(1) 日ごろはあまり出会わない重症心不全症例のERでのファーストタッチ,(2) その病態をどう考えるかという課題に対して医局の先輩や図書館の論文からの知識習得,(3) それを病棟で待ち受ける患者さんの診断にいかし,(4) そこから始める根本的な治療の開始,(5) 治療の変更と継続,(6) そして退院へ向けての方策と,その一連の重症心不全の症例の診断と治療の流れをあたかもご自分が主治医になったかのように疑似体験できる仕組みになっています.ですから,一度本書を通読すれば,重症心不全のみならず,すべての心不全に精通することができるようになります.「大は小を兼ねる」よろしく,さしずめ「重は軽を兼ねる」というところしょうか? もちろん,心不全の基礎はすでに十分習得された若手─中堅の先生がたは,ご自分の知識の確認と,ご自分の知識と技量で不足している点については,本書をつまみ食いすることにより補充していただければと思います.また,心不全の治療は医師だけではできません.ハートチームとして,医療関係者みんなで当たっていかなくてはいけません.このため,医師だけでなく,看護師,薬剤師,検査技師の皆様方も,皆様方が出会われる心不全への理解を深めるために,共通の心不全に対するプラットホームを確立するために,ぜひ,本書を通読することをおすすめいたします.
本書は,循環器領域に従事する一流の医師・研究者により執筆されております.つまり,現時点での最高の重症心不全の教科書といえるかと思います.本書は,これから重症心不全の方々と向かい合おうとする医師・医療関係者はもちろん,軽症な心不全の症例は診ることはあっても重症心不全は今おられる医療機関では診ることの少ない医師・医療関係者に対しても,ご一読願いたいと考えています.本書が少しでも皆様方の日常診療のお役に立てれば編者として大いなる喜びとするところです.
平成28年 盛夏
北風政史