緒言
本書のタイトルは,「強心薬」と「さじ加減」という2つのキーワードから成り立つ.この2つの言葉の「どこを知りたい」というのか? といぶかる方もおられよう.そのお気持ちはよくわかる.というのも,この2つの言葉は,医学・医療の世界においては時代遅れであるからだ.「強心薬」に関しては,多数の大規模介入臨床試験において,慢性心不全の生命予後を改善するどころかかえって悪化させてしまうことが知られている.また,「さじ加減」は,ガイドラインやevidence-based medicineとは真逆をいく概念である.それは,医師個人の判断で,その患者さんの病態や様子により薬剤を投与したりしなかったり,量を増減させようというものであるからだ.でも,今回,私はあえてこのタイトルをつけた慢性心不全の治療に関する成書を企画したのには,2つの理由がある.
その1つ目の理由は,心不全の病態は,特に急性または重症心不全では,強心薬がなければ患者さんの生命を救えないことが少なからずあるからだ.以前私が行っていた心臓移植部の病棟回診において,強心薬を長期間静脈内投与しないと生命が維持できない心臓移植の待機重症心不全患者さんを診るにつけその感を強くしてきた.急性心不全の治療現場においても,利尿薬やhANPだけで乗り切ることが難しく,強心薬を使って救命できた症例に出会うことはよくある.しかし,この臨床現場での事実に対する科学的なエビデンスがないのも事実である.急性・慢性心不全のどのような病態において,どれぐらいの期間,どのような強心薬を投与するべきかについてはコンセンサスがない.強心薬は両刃の剣であり,その使いかたを大規模研究で明らかにすることはきわめて困難であるからだ.2つ目は,ガイドラインのもとになる大規模臨床研究では,慢性心不全にβ遮断薬・ACE阻害薬・ARB・アルドステロン拮抗薬を投与するべきであるかを教えてくれたが,高血圧・心筋症・弁膜症・心筋虚血などによる異なる原因による心不全に対して,強心薬をどのように使うべきか,もしくは使わないべきかについて,誰も教えてくれない.でも,強心薬は慢性心不全の長期予後に対して効果がないから,その用量が不明だから,使いかたがわからないからといって,急性・重症心不全の患者さんを助けないわけにいかない.まさしく「さじ加減」の世界である.実は「さじ加減」という単語のなかに使われている「おさじ」とは,江戸時代,将軍または大名の侍医のことを指す.つまり「さじ加減」とは,将軍または大名の侍医の虎の巻のようなもので,narrative-based medicineと密接に関係する.でも,narrative-based medicineはevidence-based medicineの対極に立つもので科学的ではない.一方,我々医療関係者は,科学的に正しいと考えられることを患者さんに施行する責務がある.つまり「循環器病医療での必要性はあるのだが,科学的evidenceを得るのが困難だ」というのが,強心薬と心不全の関係であり,このような状態をどのように打破し,なるべく正確な情報を循環器病の診療に携わっておられる方に届ける必要があると感じていた.どうすれば,いいのであろうか?
そこで考えたのが,一流の循環器医師のなかでも特に臨床経験が豊富でしかも科学的思考のできる先生方に,強心薬の使いかたをその病態に分けてなるべく科学的見地から語っていただくことである.この試みが無茶なことは百も承知の上であり,実際,執筆をご依頼させていただいた先生のなかには,自分の分担部分に対して明確なエビデンスがないことを理由に,ご執筆を断ってこられた方もおられた.でも,一流の循環器医師は,自分の頭のなかで科学に基づいた治療に関するSOP(standard operating procedure,標準作業手順書)をもっており,それらを本書でご披露していただいた次第である.熱心な先生方のご尽力で,かけがえのない良い本ができたと自負している.ご執筆いただいた先生方に深く感謝するとともに,本書が,心不全の治療に携わっておられる先生方の御役に立てることができれば,編者の大きな喜びである.そして最後に,より多くの患者さんとその心臓を救える理想的な強心薬が創薬されることも心から祈念したい.
2016年春寒の頃
北風政史