まえがき
緩和ケアが世の中に広まるのに,あと何十年の年月が必要なのでしょうか.
これは,私自身がまさにいま直面している「壁」と言えるかもしれません.確かに,世の中の流れとしては,2006年にがん対策基本法が成立してこの方,様々な施策が打たれ,拠点病院や緩和ケアセンターは整備され,緩和ケアを学ぶ医療者も増えてきてはいます.私が医師になった2005年に比べれば,モルヒネの使い方が上手になったり,亡くなる直前まで大量輸液を続けて,患者さんを「陸で溺れさせる」といった例がなくなったり,現場は少しずつ良くなってきていることも確かだとは思います.しかし,患者さんや家族が実感する,がんやその他の生命を脅かす疾患に伴う苦痛・苦悩は,ちっともよくなっているようには思えないのです.「痛みがとれる」とか「苦しまずに済む」といった苦悩は少なくなっても,これまではあまり耳にしなかったような新たな苦悩が出てきたりと,イタチごっこを繰り返しているかのような無力感を感じているのです.時に,「緩和ケアはもう十分に全国に広まりつつある」といった言説を耳にすることがありますが,私にはまったくそのようには思えず,むしろ一定のところで停滞している,そしてその停滞を突破するカギがみつからずに同じ場所を回遊しているような苛立ちを感じているのです.このまま回遊を続けて,それに慣れてしまえば,日本の緩和ケアは何十年たっても世の中に広まってはいかないのでしょう.
この壁を突破するカギはいったいどこにあるのでしょうか.「人間が,どうすれば苦悩を最小限に,幸せに『生ききる』ことができるか」は,私の医師として,人間としての生きるテーマですが,それはつまり「哲学」を考えることに他なりません.緩和ケアと医学と哲学,この3つを組み合わせて考えること,そしてそれを本書に著すことが,この「壁」を突破するひとつのカギかもしれません.
本書を読んでいただく前に,私のバックグラウンドや私が勤務する川崎市立井田病院の診療システムを少し知っていただいたほうが,内容の理解がスムーズかもしれませんので,簡単に自己紹介をさせて頂きます.
私は,北海道に生まれ,北海道大学医学部時代に出会った「家庭医療」に魅せられて,北海道室蘭市にある北海道家庭医療学センターを中心とした研修に入りました.そこで,ローテート研修をしたホスピスにて緩和ケアの魅力に出会い,今後の専門を緩和ケアに定めて神奈川県にある川崎市立井田病院にて緩和ケアと在宅医療の勉強を始めました.その後,栃木県立がんセンター(宇都宮市)で抗がん剤を中心とした腫瘍内科の研修をしたのち,また川崎市立井田病院に戻り,緩和ケアチーム専従医を経て,現在は腫瘍内科専従医,というキャリアを積んできています.また,本書の中にもちょっと出てきますが,いわゆるがんの「非標準的治療」のクリニックで勉強をしていたこともあります.家庭医療からスタートし,緩和ケア,腫瘍内科そして非標準的治療まで,というキャリアはちょっと異色かもしれません.
また,川崎市立井田病院のシステムでは,腫瘍内科・緩和ケア・在宅部門を,ひとつの科(ケアセンター科)で担当しています1).抗がん剤を始めて,外来で診て,緩和チームが介入して,緩和ケア病棟で診て,そして在宅で看取ることまで全て自分一人で行うことだって可能です(実際にはチームで診療しますが).なので,患者さんや家族にとっては,抗がん剤を始めてから最期のときまで,科が代わって引き継がれるという煩わしさに悩まされることはありません.私たちがあなたと最期まで一緒にいますよ,と言えるこのシステムは,現センター長・病院理事である宮森正先生が考案し,構築したものです.とても先見性に優れたシステムで,私が患者さんにとって本当によい医療システムとは,と考えるときの礎になっています.
哲学については,ハイデガー,カント,ニーチェ,ヒューム,ソシュール,レヴィ・ストロース,フッサールなどから孔子,老子なども学びましたが,そこまで深く研究した,というほどのことではなく,本当の哲学者からすれば私の考えなど浅はかなものでしょう.だから,逆にいえば,本書ではこういう先人たちが述べた難解な哲学用語などはほとんど出てきませんので,そういうのが苦手な人でも安心して読み進めてください.
本書では,緩和ケアの現場でぶつかるであろう「壁」について扱います.ただ,「壁」といっても「モルヒネを使ってもうまく痛みが取れない」とか「薬物依存があるかもしれないけど,どうしたらいいんだろう」というような,症状緩和や薬物に関する話は取り扱いません.それも確かに,悩ましいひとつの「壁」でしょうけれども,ここではより「答えの出しにくい」領域についての話に絞っていこうと思います.何せ「哲学」がテーマですからね.
本書は緩和ケアを学び始めたばかりの医師,看護師,学生や数年間実践している中堅クラスの医療者に向けて書いています.ただ,ここでいう「緩和ケアを学び始めた」というのは,将来緩和ケアを専門にやっていこう,という方だけではなく,家庭医の方々や他の科のドクター,一般病棟の看護師や他の医療職の方々もそうです.何しろ,緩和ケアは全ての医療者が身に着けるべき基本的な技術・考え方なのですから.そしてもちろん,もうすでに緩和ケアの現場で十分に学び実践された諸先輩方にも,自分が乗り越えてきた「壁」を想い,本書を開いていただけることを期待します.
本書を読んでいただき,多くの医療者の方々が,緩和ケアでぶつかる「壁」を乗り越えるヒント,また考えるための枠組みを得られるきっかけになることを祈っております.
※本書中には多くの患者さんのエピソードが出てきますが,そのほとんどはフィクションです.モデルとなるケースはありますが,それらの設定を組み合わせた上,患者さんの背景も変えてあります.その点ご了承の上,お読みください.
※本書は,エビデンスに基づく部分と,完全に私個人の私見に基づく部分が織り交ぜられて書かれています.エビデンスに基づく部分はできる限り引用を示していますが,一部にはエビデンスの内容と逆行するような意見もございます.本書をご覧いただく際は,全ての内容が一般化可能性の高い知見ではないことをご注意の上お読みください.
■文献
1) 西 智弘,ら.腫瘍内科と緩和ケアを統合した研修プログラムの実際.Palliat Care Res. 2015; 10: 920-3.
本書は「maggie’s tokyo project」の理念に賛同し,その活動を支援するため,売り上げの一部を同プロジェクトに寄付しています.
プロジェクトの詳細や活動,理念はp.193でもご紹介しておりますが,詳しくはmaggie’s tokyo project Webサイト:http://maggiestokyo.org/ をご参照ください.また,このWebサイトではプロジェクトへの寄付を募っており,以下の手続きでプロジェクトへの寄付を行うことも可能です(本書発行後に手続き方法の変更の可能性があるため,念のため必ず上記Webサイトをご覧いただくか,事務局へ直接お問い合わせください).是非,多くの方のご支援をよろしくお願いいたします.
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